2021年1月12日火曜日

「このまま」の味

 「このまま」ということは、本願力の救済であるから、絶対の無条件の救済のことを「このまま」という。言葉は知っておるが、「このまま」になっておる人は少ない。

 父久太郎が、神戸駅の近くに住んでいた住川のおばさんに、何十回、何百回となく、「おばさん、心配しなさるなよ、このままやで」と言って聞かせておったのであるが、そのおばさんは、いつも「はいはい」といって聞いておった。

 父が死んでから、さて「このまま」ということは、どういう意味かと考え出した。
 考えても考えても、わからん。毎日毎日、十年間「このまま」を考え抜いた。
 十年経って初めて「本願名号の不思議のこのまま」であるということが分かった。
 それほど、「このまま」の味はむつかしい。

このままと 云えどこのまま 幾千種

 「このまま」の意味が、ほんとうに味わわれたところが、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第20号(1978年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「このまま」という説教は、「まるまま」と言ってみたり、
このような説教はよくあります。

この根拠はどこにあるのか、それは弥陀の第十八願です。
「乃至十念 若不生者 不取正覚」と
このご文のどこにも、阿弥陀様は、十方衆生に何の要求も
されていません。

光瑞寺 さんのコメント...

「このまま」とは私の側の話かと思いきや、御本願の御心でありました。
救いを凡夫の側で語らず、佛さまの側でいただく話は有り難い、有り難うございます。

空手にて いたゞく寳 無尽蔵

 今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。 役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。 「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。 念佛者は、信心歓喜の生活である。 稲垣瑞劔師「法雷」第91号(198...