2021年1月31日日曜日

巻頭言(21)

 「一切衆生悉有佛性」とは、一切衆生は未来に必ず大信心を得るからである。
 如来の正覚は時空を超越して、常に現在の一念である。これを正覚の一念という。

 正覚の一念が凡夫の世界に流れて、因果の制約の中に現れると、三世十方の往生がある。
 三世の往生は各別であるが、弥陀正覚の一念の外なるものではない。

 正覚の一念常住なれば、弥陀の名願力は常住である。本願力にめざめた時を帰命の一念という。
                                                   九十三歳 瑞劔

稲垣瑞劔師「法雷」第21号(1978年9月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「正覚の一念」は、安心決定鈔にありました。

「…機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。…」

已・今・当の三世の往生は不同なれど、
ただ今救うと仰られていますから、ただ今救われてください。

光瑞寺 さんのコメント...

「一切を救う正覚を得たぞ」とお立ちあそばす如来さまの腕の中に、佛縁の厚い人・薄い人、已往生・未往生、不同なる人々が抱かれてある、そんな有り様を描いていましたが、「私の救い」となったら「ただ今救う」の仰せ以外に、どこを探してもないのですね。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...