2021年4月12日月曜日

落ち切れば 浮かぶ時なり

 罪悪感といっても、浅いのと深いのと色々ある。機の深信のような深い罪悪感は他の宗教には絶対に見られない。

 新約聖書に「心の浄きものは幸いなり、その人は神を見ることが出来る」と書いてあるが、凡夫の心を百億万年磨いたところで、「愛憎」と「我執」が捨たらぬ。「我執」と「愛憎」が捨たらない限り「心が浄くなった」とは言われない。
 戒定慧の三学、六波羅蜜の修行を、今日の凡夫が千億万年修行したところで、心は浄くならない。それなのに「心の浄きものは幸いなり」などと、そんな人があるかの如く言うておることが、そもそも浅い罪悪感だと言わなければならぬ。機の深信の罪悪感とは千万里の距たりがある。

 親鸞聖人が仰せられた。
「とても地獄は一定すみかぞかし」と。
 善導大師が申された。
「出離の縁あることなし」と。
 これが落ち切ったすがたである。ここまで落ち切らぬことには信心でない。

 何億万年自力の修行をしたところで、「出離の縁あることなし」とならぬかぎり、機の深信ではない。御安心の上で「我れ善を為せり」といったように自分の善が眼につくようなことでは、機の深信までまだ千万里である。
 「我れ善を為せり」と思う心は、聖道門で言えば、皆悪である。これ位のことが分からぬ人には、機の深信はあり得ない。もっともっと深く自己を反省してみる必要がある。

 親鸞聖人が歎異抄に「善悪の二字総じてもて存知せざるなり」と申されたのは、「凡夫の善は皆悪じゃ」ということである。

稲垣瑞劔師「法雷」第27号(1979年3月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「心の浄きものは幸いなり、その人は神を見ることが出来る」

マタイの福音書5章8節にある言葉でした。
このとおりに、心の浄きものになれば、救われるに間違いないことです。

光瑞寺 さんのコメント...

「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸佛教」
は七佛の通誡するところです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...