2021年5月6日木曜日

讃嘆の 念佛称える 身に仕立て 迎え取るのが 念佛往生(2)

 法然上人は『一枚起請文』の中に、
 「南無阿弥陀佛にて往生するぞ」
と仰せられ、また
 「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じて」
と仰せられた。これ皆本願名号を讃嘆しておられるのである。

 天親菩薩は、
 「我れ一心に尽十方無碍光如来に帰命す」
と仰せられた。
 「帰命」は礼拝門であり、「尽十方無碍光如来」は讃嘆門である。天親菩薩が「無碍光如来」と仰せられた、これは讃嘆の極である。同時に信心の表白である。

 我らも「帰命尽十方無碍光如来」様を、仰ぎ仰ぎ、仰ぎ切って、「この無碍光如来様が見てござる、護ってござる、待ってござる」と、仰ぎ仰ぎてよろこぶ心が、それが讃嘆であり、また信心である。 その信心から流れ出る念佛が、横超他力の念佛である。
 天親菩薩の念佛は、讃嘆の念佛であった。善導大師、法然上人の念佛も、親鸞聖人の念佛も、すべて大信海より流れ出た、本願力回向の念佛であった。

 念佛往生の真髄は、信心往生であり、南無阿弥陀佛の独立である。

 親鸞聖人は、天親菩薩の真精神を承けつがれて、総序の文に曰く、
 「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
と仰せられた。
 この一句が『大無量寿経』の真髄であり、『教行信証』の真髄であり、龍樹・天親の両菩薩を始め、七高僧方の真精神である。「聞其名号信心歓喜」の聖句と共に、一生涯の努力を捧げて、研究し、聴聞し、讃嘆するがよい。

 讃嘆のあまり、筆にまかせて下記のごとく詠ずる。

○聞くままに ただ聞くままに お慈悲よと
 たのむなりけり 弥陀のよびごえ

○九十年 何を聞いたか おぼえたか
 本願名号 ただひとつ
 よばれてかえる おやのふるさと

○佛法は 聞くでなし 信ずるでなし
 ただよび声の 響き渡れる

稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

念佛往生の真髄は、信心往生であり、南無阿弥陀佛の独立である。

とありますが、何ともわからないのが、有り難いですね。
独立…、独立…、独立…、
1か月ほど心に留めて、またコメントさせてもらいます。

光瑞寺 さんのコメント...

有り難うございます、私もご一緒させてもらいます。

土見誠輝 さんのコメント...

念佛往生の真髄は、信心往生であり、南無阿弥陀佛の独立である。

とありますが、ここの独立は、本願力のひとりばたらきということと、
教えていただきました。

よく、「阿弥陀様のひとりばたらき」とお聞きしているのですが、
これまで「ひとり」は、「一人」と漢字で書いていましたが、
これからは「独り」と書くべきなのだと思いました。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...