『観経』に言はく「佛身を観る者は佛心を見る、佛心とは大慈悲これである」と。佛にはかくのごとき不可思議の功徳がある。
一方で、凡夫は佛身を見ることが出来ない。すなわち眼見(げんけん)することは出来ない。真佛土巻に曰く「一切衆生は実に如来の心相を知ること能わず」と。
然しながら、如来の本願力によりて佛心を聞見(もんけん)することが出来る。これすなわち「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」である。
阿弥陀如来は、一切の功徳をその口業(くごう)功徳、すなわち南無阿弥陀佛に成就して下さった。
南無阿弥陀佛は如来の口業功徳なれば、称えて往生するものでなく、聞信して往生するのである。聞信もまた如来の功徳であり、本願力である。
稲垣瑞劔師「法雷」第31号(1979年7月発行)
2 件のコメント:
「佛身を観る者は佛心を見る、佛心とは大慈悲これである」
とありますが、
観無量寿経の真身観にありました。
「念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。・・・仏身を観ずるを以っての故に、亦仏心を見る。仏心とは大慈悲是なり、無縁の慈を以って諸の衆生を摂す。」
「念佛の衆生を摂取して捨てぬ」この大悲の南無阿弥陀佛が、阿弥陀佛の真身なのでしょう。
「まことに佛名は真応の身よりして建立せるがゆえに、慈悲海よりして建立せるがゆえに、誓願海よりして建立せるがゆえに、・・・」(行巻)
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