2021年7月18日日曜日

衆生の為にして利養の為にせず

 『観経』に言はく「佛身を観る者は佛心を見る、佛心とは大慈悲これである」と。佛にはかくのごとき不可思議の功徳がある。
 一方で、凡夫は佛身を見ることが出来ない。すなわち眼見(げんけん)することは出来ない。真佛土巻に曰く「一切衆生は実に如来の心相を知ること能わず」と。
 然しながら、如来の本願力によりて佛心を聞見(もんけん)することが出来る。これすなわち「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」である。

 阿弥陀如来は、一切の功徳をその口業(くごう)功徳、すなわち南無阿弥陀佛に成就して下さった。
 南無阿弥陀佛は如来の口業功徳なれば、称えて往生するものでなく、聞信して往生するのである。聞信もまた如来の功徳であり、本願力である。

稲垣瑞劔師「法雷」第31号(1979年7月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「佛身を観る者は佛心を見る、佛心とは大慈悲これである」
とありますが、

観無量寿経の真身観にありました。
「念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。・・・仏身を観ずるを以っての故に、亦仏心を見る。仏心とは大慈悲是なり、無縁の慈を以って諸の衆生を摂す。」

光瑞寺 さんのコメント...

「念佛の衆生を摂取して捨てぬ」この大悲の南無阿弥陀佛が、阿弥陀佛の真身なのでしょう。

「まことに佛名は真応の身よりして建立せるがゆえに、慈悲海よりして建立せるがゆえに、誓願海よりして建立せるがゆえに、・・・」(行巻)

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...