2021年8月26日木曜日

照らす光のあればこそ我が身も知れる

 悪いことの日々出来起こるにつけ、久遠劫来の造罪はともかくとして、今生において造った大罪が今自分の眼に見せつけられるような気がする。慚愧(ざんぎ)なくして悪事を迎えることがどうして出来よう。
 どうも因果の道理は不可思議にも厳粛である。

 懺悔(さんげ)のところ罪亡ぶ。されど我らはその懺悔すらようせぬのである。
 しかるに、一念の信心によりて「三品の懺悔をする人とひとし」と宗師(善導大師)はのたもう。慚愧の生活、慚愧の生命、またこれ大悲光明裡の生活であることをよろこぶ。

 今日一日、無常火宅の世にありて佛法に心を寄せ、浄土の荘厳相を憶念させていただくよろこびはまた格別である。お浄土を憶い念う日々の生活、まあこれ以上の生活はあるまい。
 佛を憶い浄土を念わせて、その憶念の徳としてこの世も安楽に生活せしめたもう如来のお慈悲を思う。

稲垣瑞劔師「法雷」第32号(1979年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

真心徹到するひとは
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまへり
(『高僧和讃』)
と教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

「懺悔の滅罪に等しい徳分をお恵みくださる」とは、できぬ懺悔が出来るようになる、ということではありませんでした。懺悔すらも出来ぬ者を、そのまま抱き取ってくださるお慈悲の忝さ、佛智の不思議でありました。

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...