「至心信樂 己(おのれ)を忘れて速やかに無行不成(行として成らざるなし)の願海に帰す」と『報恩講式』にあるように、己忘れて願力を仰ぎ切ったら大安心である。
本願力にまかせ切ったのを「法の深信」といい、地獄一定となったのを「機の深信」という。この二つは同一信心の二方面である。
本願力の偉大なことは「智愚の毒を滅す」と申され、「不可称・不可説・不可思議の信楽なり」と仰せられて、凡夫自力のはからいが皆、如来様に取られてしまったすがたが本願力である。
本願力にまかせ切った人は、落ち切ったと同じであるから、安心を求めないが、大安心することができる。
法然上人が仰せられた、「愚痴に還りて極楽に参る」と。
この愚痴とは、一切凡夫のはからいの捨った境地である。これを「愚痴」という。
こうすれば参れる、と理屈を付けておる間は本当の愚痴ではない。
『愚禿鈔』に曰く「今この深信(二種深信)は他力至極の金剛心なり」と。
二種深信は、講釈が出来ただけではあかん。自分が実際に二種深信の人にならなければ何にもならぬ。
二種深信はどこから起こるかといえば、凡夫の心から起こるのでなくて、佛智から起こる。それゆえ「機の深信」は、他の宗教で言うところの罪悪感とは訳が違う。
佛智の眼を以て機を照らせば「無有出離之縁(しゅつりのえん あることなし)」の機の深信となり、佛智を以て法を照らせば摂受衆生(しょうじゅ しゅじょう)の願力を知るのである。佛智円照を抜きにして二種深信を語ることは出来ない。
稲垣瑞劔師「法雷」第33号(1979年9月発行)
2 件のコメント:
「智愚の毒を滅す」
とありますが、
「如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり」
(『教行信証』信巻)にあるお言葉です。
如来の誓願の薬は、よく智者から愚者までのはからいの毒を滅する。
と教えていただいております。
とられてみて、ようやく気付く「ああ、あれもこれもはからいであった」と。
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