2021年9月12日日曜日

おのれ忘れて願力を仰ぐ

 「至心信樂 己(おのれ)を忘れて速やかに無行不成(行として成らざるなし)の願海に帰す」と『報恩講式』にあるように、己忘れて願力を仰ぎ切ったら大安心である。
 本願力にまかせ切ったのを「法の深信」といい、地獄一定となったのを「機の深信」という。この二つは同一信心の二方面である。

 本願力の偉大なことは「智愚の毒を滅す」と申され、「不可称・不可説・不可思議の信楽なり」と仰せられて、凡夫自力のはからいが皆、如来様に取られてしまったすがたが本願力である。
 本願力にまかせ切った人は、落ち切ったと同じであるから、安心を求めないが、大安心することができる。

 法然上人が仰せられた、「愚痴に還りて極楽に参る」と。
 この愚痴とは、一切凡夫のはからいの捨った境地である。これを「愚痴」という。
 こうすれば参れる、と理屈を付けておる間は本当の愚痴ではない。

 『愚禿鈔』に曰く「今この深信(二種深信)は他力至極の金剛心なり」と。
 二種深信は、講釈が出来ただけではあかん。自分が実際に二種深信の人にならなければ何にもならぬ。
 二種深信はどこから起こるかといえば、凡夫の心から起こるのでなくて、佛智から起こる。それゆえ「機の深信」は、他の宗教で言うところの罪悪感とは訳が違う。

 佛智の眼を以て機を照らせば「無有出離之縁(しゅつりのえん あることなし)」の機の深信となり、佛智を以て法を照らせば摂受衆生(しょうじゅ しゅじょう)の願力を知るのである。佛智円照を抜きにして二種深信を語ることは出来ない。

稲垣瑞劔師「法雷」第33号(1979年9月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「智愚の毒を滅す」
とありますが、

「如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり」
(『教行信証』信巻)にあるお言葉です。

如来の誓願の薬は、よく智者から愚者までのはからいの毒を滅する。
と教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

とられてみて、ようやく気付く「ああ、あれもこれもはからいであった」と。

空手にて いたゞく寳 無尽蔵

 今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。 役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。 「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。 念佛者は、信心歓喜の生活である。 稲垣瑞劔師「法雷」第91号(198...