六字釈は、善導大師が「玄義分」において聖道諸宗の人たちに宣言された大文字である。
親鸞聖人は行巻にこれを釈して「ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり」と。
帰命とは帰順ということで、如来の仰せに順うことである。すなわち「本願招喚の勅命」(よびごえ)に順うことである。
この帰命は、衆生が仰せに順うのであるから、衆生のはたらきである。衆生の信心である。然るに聖人は「帰命は本願招喚の勅命なり」と釈せられた。
すなわち「機」(信心)を「法」(勅命)で釈せられた。これを法体釈(ほったいじゃく)という。そこに聖人の御親切な甚深(じんじん)の意味がある。
「自分が信じたのだ」と思えば、それは自力である。
信ずるということは、如来さまのお慈悲を仰ぎ、仰ぎ、仰ぎ切ったことであるから、信に信の手柄を認めず、帰命のままが本願招喚の勅命に巻き上げられてしまって、全く私なき相(すがた)をあらわされたものである。
これは、勅命と帰命との間に私が這入(はい)らぬ、自力の何ものも這入らぬ相(すがた)である。
何ものも這入らなければ、帰命は本願招喚の勅命である。甚深甚深の味わいがある。
稲垣瑞劔師「法雷」第34号(1979年10月発行)
2 件のコメント:
「本願招喚の勅命」とは、
衆生に帰せよと命じる如来のよび声と、
教えていただいております。
「勅命」とは、長いことお聞かせいただき、頭でいろいろ考えましたが、「帰せよ、まかせよ、この弥陀に」その他に聞きようがないことを教えて下さったことです。
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