2021年9月20日月曜日

帰命は勅命なり

 六字釈は、善導大師が「玄義分」において聖道諸宗の人たちに宣言された大文字である。
 親鸞聖人は行巻にこれを釈して「ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり」と。

 帰命とは帰順ということで、如来の仰せに順うことである。すなわち「本願招喚の勅命」(よびごえ)に順うことである。
 この帰命は、衆生が仰せに順うのであるから、衆生のはたらきである。衆生の信心である。然るに聖人は「帰命は本願招喚の勅命なり」と釈せられた。
 すなわち「機」(信心)を「法」(勅命)で釈せられた。これを法体釈(ほったいじゃく)という。そこに聖人の御親切な甚深(じんじん)の意味がある。

 「自分が信じたのだ」と思えば、それは自力である。
 信ずるということは、如来さまのお慈悲を仰ぎ、仰ぎ、仰ぎ切ったことであるから、信に信の手柄を認めず、帰命のままが本願招喚の勅命に巻き上げられてしまって、全く私なき相(すがた)をあらわされたものである。
 これは、勅命と帰命との間に私が這入(はい)らぬ、自力の何ものも這入らぬ相(すがた)である。
 何ものも這入らなければ、帰命は本願招喚の勅命である。甚深甚深の味わいがある。

稲垣瑞劔師「法雷」第34号(1979年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「本願招喚の勅命」とは、
衆生に帰せよと命じる如来のよび声と、
教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

「勅命」とは、長いことお聞かせいただき、頭でいろいろ考えましたが、「帰せよ、まかせよ、この弥陀に」その他に聞きようがないことを教えて下さったことです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...