2021年10月24日日曜日

ただそのおことばによりてのみ

 親鸞聖人は私にとって、この上もなく有り難い人である。
 煩悩の強いこと、智眼のくらいこと、愛欲の広海のほとり無きこと、生死の問題に直面したら手も足も出すことのできない弱い私のすがたを、御自身もその通りであると何の飾りもなく、何の繕いもなく、筆にあらわしてさらけ出されているところが、何ともかとも言えないほど有り難い。
 聖人のたまわく、

 「生死の苦海ほとりなし
  ひさしくしづめるわれらをば
  弥陀弘誓のふねのみぞ
  のせてかならずわたしける」

 「無明長夜の燈炬なり
  智眼くらしとかなしむな
  生死大海の船筏なり
  罪障おもしとなげかざれ」

 「願力無窮にましませば
  罪業深重もおもからず
  佛智無辺にましませば
  散乱放逸もすてられず」

と。人生九十五年の旅を終わり、今死の床に就いたら、何がたよりになるかというたら、親鸞聖人の「おことば」より他に、たよりになるものはない。
 親鸞聖人のおことばは、親鸞聖人である。親鸞聖人は阿弥陀如来の示現である。われらは、親鸞聖人のおことばを直ちに「阿弥陀如来の直説」と仰ぐところに、生死の大問題を解決することができる。この外に解決の鍵は一つもなく、また二つもなし。

 「弥陀弘誓のふねのみぞ
  のせてかならずわたしける」
といただくところ、絶望の淵に、無限の希望とよろこびが湧きおこるのである。
 「願力無窮にましませば・・・」
と誦し来たり誦し去るとき、無限の歓喜に胸打たるるのである。

 生死は自己の生死である。生死の問題は人間の能力を以ては之を解決することができぬ。ただ如来の「ことば」によりてのみ解決することができるのである。ただ聖人の御跡を慕うことによってのみ解決することができるのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第35号(1979年11月発行)

2021年10月16日土曜日

一字一光

 親鸞聖人のえらいところは、高僧の説を正しく信じ、正しくお説き下されたところが聖人のえらいところである。
 親鸞聖人の『教行信証』は、一字一句 如来さまのお慈悲の光明である。
 それを末世の衆生に知らせてやりたいと思し召して、一生涯食うものを食わず、着るものを着ずして、千辛万苦のうちにお書き残して下されたのが『教行信証』一部六巻のお聖教である。
 ゆえに、『教行信証』を拝読して如来さまのお慈悲のわからぬものは、「論語読みの論語知らず」である。

 浄土真宗は「行」と「信」とが往生の因である。「行」とは阿弥陀佛の勅命、本願の勅命である。「信」とは、如来の勅命に順うたのが「信」である。
 順うと言うても、おのれが素直で、賢くて順うたのではない。およびごえの佛智、よんで助けて下さる如来さまの大慈悲心が強いものだから、水火をも忘れて「有り難うございます」と自然に頭が下がったのが「信」である。
 唯だ是れ南無阿弥陀佛のひとりばたらきであり、本願力のひとりばたらきである。

稲垣瑞劔師「法雷」第35号(1979年11月発行)

2021年10月8日金曜日

ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり

 真宗学において一番問題であり、また難関でもあるところのものは「念佛」である。
 古来、念佛と信心の関係を「行信論」と称し、学徒は幾十年と研鑽したものである。

 然しながら、まず本願の生起本末を聞き、大悲心に立脚して、これを大処高処より見るならば、行信論は「大信海の行信論」でなければならぬ。
 ここに徹底すれば、「信」の一字一宗を振るうものは浄土真宗であるということもわかり、また教行信証が大信海より開けたということも合点がゆき、かつまた本願の三心より五願を開示するという法雷派の意味も了解することが出来るのである。真宗眼はここに在る。

稲垣瑞劔師「法雷」第35号(1979年11月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...