2021年11月4日木曜日

願力無窮にして佛智無辺なり

 大谷光瑞猊下が別府の病院で御往生あそばされたとき、臨終に「願力無窮」の御和讃を一、二回上げられ、お念佛と共に往生せられた。
 神戸の青木の無量寺の坊守さんは、三十二歳の時瑞劔より「願力無窮」の御和讃を聞き、八年経って臨終に際してまた瑞劔より「願力無窮」の話を聞き、「落ちるままですね」の一言を残して目出度く往生せられた。
 一首の御和讃、よく久遠劫来の生死の苦輪を解脱せしむるのである。何十年苦しんで未だ苦界を出ずることのできないものは、すべからく「願力無窮」の聖句に参ずるがよかろう。

 「願力無窮」とは、本願力は甚深微妙、無限の力があるということである。火宅無常の世界に生まれ出で、煩悩具足の凡夫として、生死をのがれる道の絶え果てた者は、如来の本願力によりてのみ、生死を出ずることができるのである。
 親鸞聖人は、願力の無窮なることを篤くいただき、深くよろこばれた。そのよろこびがこの御和讃で、これで後生の問題が解決できないということはない。佛智と大慈悲の丸出しである。
 どれほど重い罪業も、本願力の溶鉱炉の上へ持ってきたら一片の雪で、すぐ融けてしまう。その力を「願力無窮」という。まことに頼もしい極みである。

 「佛智無辺」とは、われらの心の散乱放逸も、往生の障りにならぬということである。それは佛智の不思議である。
 信心はまだ獲ておらぬ、医者は手を放した、出てゆく後生は真っ暗闇である。このときに「願力無窮」の御和讃が無明長夜の灯炬(とうこ)になって下さる。
 この和讃をくり返しくり返し誦しておると、安養の妙果が私を差し招き、阿弥陀如来がにこにことして私を待っていて下さっているのが、眼に見えるように思われる。

 和讃はどれもこれも有り難いが、とくに「願力無窮」の和讃が有り難い。この有り難い味は、口に出して言うことができぬ。
 それというのは、「願力無窮」を味わうときは、自分の智慧も考えず、行いも考えず、善悪も何もかも考えず、ただ、どうしても助からぬ内心秘奥の苦悶を抱えて、丸のはだかになって、如来様に遇うた心地で味わうのである。
 その時には、これから信心をいただこうとか、もう信心をいただいたのだからとか、そんなところに用事はない。
 自分の罪悪の深いことは言うても言わなくても知れたこと、自分が落ちる自分であることはこれまた知れたこと、まるで大海の捨て小舟のようなこの奴に、絶望の淵に沈んでおるこの者に、響いてくるのがこの和讃のことばである。
 そんな味が人に言えるものか。また言うたところで自分が感じたほど人は感じてくれぬ。感ずる感じないに用事はない。ただ願力無窮が有り難い。生命の声は生命を与えてくれる。如来生命の声は、如来回向の生命の耳をもって聞かねば聞かれぬ。

「願力無窮にましませば
 罪業深重もおもからず
 佛智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず」

稲垣瑞劔師「法雷」第35号(1979年11月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
(『御文章』5帖目第1通)
と教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

和讃にせよ御文章にせよ、生死の苦輪のまっただ中で、窮まりなき願力に心を浮かべ、千万言も言葉も尽くして、なお尽きぬ感嘆が響いてくるのでしょう。
「こころもことばもたえたれば 不可思議尊に帰命せよ」

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...