人間が我慢・我執を拭い去り、法性・佛性・心性・真如と合一したならば、常に大智・大悲をもって衆生を済度せられるのである。それが佛陀であり、聖者と言われる方である。その為すところのものが真実の如来行であり、大乗佛教で言うところの善である。
佛陀は善の根源であり、善であり、その教法は悉く善である。修行も善なれば、佛陀を信ずる信心もまた善である。
要するに、大宇宙の絶対の真理と、絶対の真理を悟った大智と、大智に即した大悲は善の本源である。これを理想として進む人間の一切の行動は善である。この理想追求に反する行為は、すべて悪である。
然しながら悲しい哉、実際に於て凡夫は常に我執・我慢によって心が汚されておる。その汚れた心を以て為すところの善は、是れ善に似て悪であり、罪である。
このところまで徹底して凡夫の地性を見究め、その上に立って往生成佛の法を説いたのが浄土真宗である。
浄土真宗に於いては、もとより聖道諸宗の聖者たちがせらるる善を善と認めはする。またわれら凡夫として為し得る善を為し、悪を遠ざかるように力めはするが、信心の上から、
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して
出離の縁あることなし」
と深信したる罪悪感(機の深信)が是れ善である。
同時に、本願力によりて「かかる者が救われる」と深信したる大信心(二種深信)が是れ善である。
なにゆえに二種深信が善であるかと言えば、機の深信は、普通一般の信前の罪悪感と異なって、本願力を仰ぐ法の深信であるからである。法の深信もまた、機の深信に即した、如来回向の佛智なるが故に、是れ善である。
二種深信の外に信心はない。まことの信心は必ず機法二種の深信となって現れる。これは信心の必然的法則である。機法二種の深信はすなわち大信心であるから、大信心は善である。
なにゆえに大信心が善であるかと言えば、信心の体は名号である。
名号は如来の佛智と大悲心の結晶であって、衆生のための大善・大功徳である。
名号と信心とは別なものではない。南無と帰命するままが、南無阿弥陀佛である。名号が大善・大功徳なれば、信心もまた大善であることは、推して知ることが出来る。
稲垣瑞劔師「法雷」第36号(1979年12月発行)
2 件のコメント:
覚如上人の著作である『口伝鈔』に、
上人仰せにのたまはく、「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。
とありました。
自己が中心とすべきものは何か。そのことを問わずに人生を考えても、迷いを深めるばかりである。
自己が中心とすべきものを見失うから、無秩序に支えを求める。これがいわゆる「自己中心」である。
人生の全野を覆うものは善の問題である。釈尊にしても「善を求めて出家した」と仰せられる。佛陀とは一面、純粋なる善の完成者であり、これが完全なる人格である。
人格が完成されなければ人間は満足できぬ。それには
○人格を完成した善を究めるか
○「究めることが出来る」という自覚を持つか
のいずれかである。
八正道・六波羅蜜は善を究める法である。聖道門は究極の善である。
浄土門は、善を究めた覚者の無限の感化力である。この善の力用を中心として、我執の己はどこまでも否定される。雑善の屍骸をとどめぬ徳海なる大信心は、純粋なる善である。
「南無阿弥陀佛をとけるには 衆善海水のごとくなり
かの清浄の善身にえたり ひとしく衆生に回向せん」
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