2021年11月20日土曜日

善とは何ぞや

 人間が我慢・我執を拭い去り、法性・佛性・心性・真如と合一したならば、常に大智・大悲をもって衆生を済度せられるのである。それが佛陀であり、聖者と言われる方である。その為すところのものが真実の如来行であり、大乗佛教で言うところの善である。
 佛陀は善の根源であり、善であり、その教法は悉く善である。修行も善なれば、佛陀を信ずる信心もまた善である。
 要するに、大宇宙の絶対の真理と、絶対の真理を悟った大智と、大智に即した大悲は善の本源である。これを理想として進む人間の一切の行動は善である。この理想追求に反する行為は、すべて悪である。

 然しながら悲しい哉、実際に於て凡夫は常に我執・我慢によって心が汚されておる。その汚れた心を以て為すところの善は、是れ善に似て悪であり、罪である。
 このところまで徹底して凡夫の地性を見究め、その上に立って往生成佛の法を説いたのが浄土真宗である。

 浄土真宗に於いては、もとより聖道諸宗の聖者たちがせらるる善を善と認めはする。またわれら凡夫として為し得る善を為し、悪を遠ざかるように力めはするが、信心の上から、
 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
  曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して
  出離の縁あることなし」
と深信したる罪悪感(機の深信)が是れ善である。
 同時に、本願力によりて「かかる者が救われる」と深信したる大信心(二種深信)が是れ善である。

  なにゆえに二種深信が善であるかと言えば、機の深信は、普通一般の信前の罪悪感と異なって、本願力を仰ぐ法の深信であるからである。法の深信もまた、機の深信に即した、如来回向の佛智なるが故に、是れ善である。
 二種深信の外に信心はない。まことの信心は必ず機法二種の深信となって現れる。これは信心の必然的法則である。機法二種の深信はすなわち大信心であるから、大信心は善である。

 なにゆえに大信心が善であるかと言えば、信心の体は名号である。
 名号は如来の佛智と大悲心の結晶であって、衆生のための大善・大功徳である。
 名号と信心とは別なものではない。南無と帰命するままが、南無阿弥陀佛である。名号が大善・大功徳なれば、信心もまた大善であることは、推して知ることが出来る。

稲垣瑞劔師「法雷」第36号(1979年12月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

覚如上人の著作である『口伝鈔』に、
上人仰せにのたまはく、「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。
とありました。

光瑞寺 さんのコメント...

自己が中心とすべきものは何か。そのことを問わずに人生を考えても、迷いを深めるばかりである。
自己が中心とすべきものを見失うから、無秩序に支えを求める。これがいわゆる「自己中心」である。

人生の全野を覆うものは善の問題である。釈尊にしても「善を求めて出家した」と仰せられる。佛陀とは一面、純粋なる善の完成者であり、これが完全なる人格である。

人格が完成されなければ人間は満足できぬ。それには
○人格を完成した善を究めるか
○「究めることが出来る」という自覚を持つか
のいずれかである。

八正道・六波羅蜜は善を究める法である。聖道門は究極の善である。
浄土門は、善を究めた覚者の無限の感化力である。この善の力用を中心として、我執の己はどこまでも否定される。雑善の屍骸をとどめぬ徳海なる大信心は、純粋なる善である。

「南無阿弥陀佛をとけるには 衆善海水のごとくなり
 かの清浄の善身にえたり  ひとしく衆生に回向せん」

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...