2022年1月24日月曜日

遇ふと申すは本願力を信ずるなり

 浄土の三種荘厳の中でも、中心は佛荘厳である。この八種の佛荘厳の中で、第八番目の荘厳を「不虚作住持(ふこさじゅうじ)功徳成就」という。この荘厳が有り難い。不虚作住持功徳成就というのは、佛徳の中の最高の功徳である。

 『浄土論』の不虚作住持功徳の文に曰く、
 「観佛本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」
 「佛の本願力を観ずる」とは、尽十方無碍光如来の本願力が、行者の心に徹到して、「如来の本願力にて往生する」と如来の本願力をたのもしく思う(信)のを言う。この場合、「信」と「観」とは同じ意味である。

 「観ずる」というのは、凡夫が意識のはたらきで「こうである」「ああである」と思うことではない。それは意業といって、信心ではない。信心は意識(意業)に浮かび出ずるものではあるが、凡夫の日常の思いのごとく、思うたのが信心ではない。
 信心は如来の佛智(大悲心)が、凡夫の心に徹到し、印現したのを信心というのである。今の「観ずる」がそれである。

 真心(大慈悲心)が徹到すると、己れ忘れて「ありがとうございます」となるものである。「己れ忘れる」とは、「こうである」「ああである」と凡夫が意識のはたらきをしないことである。
 また「ああ分かった、これでよい」と、自分の知性を当てにしないで、ただ信順することを信心という。

  行け来いの 中で忘るる 己哉(瑞劔)

 浄土の三種荘厳を観ずるというのは、尽十方無碍光如来を観ずることと同じであって、天親菩薩はそれを「一心に尽十方無碍光如来に帰命す」と申された。

稲垣瑞劔師「法雷」第40号(1980年4月発行)

2022年1月16日日曜日

正覚の華より化生せしめんがために

 自己を完成して佛に成る道が聖道門、難行道である。宗派で言えば、華厳・天台・真言・禅などであるが、その真理の深いことは世界一で、驚くべきものがある。
 本願一乗は、その最高の真理に裏付けられた、凡夫直入の大宗教である。聖道門は、本願一乗すなわち阿弥陀如来の大智海の波である。

 浄土門は、如来が衆生の信も行も完成してくださって正覚を取られた。その正覚、南無阿弥陀佛の功徳力にて往生するのが浄土門である。

 阿弥陀如来の正覚の功徳は、南無阿弥陀佛の功徳である。
 南無阿弥陀佛の功徳は、浄土の荘厳の功徳である。
 その正覚の功徳力にて衆生を往生せしめようと、超世の願を建てて下さったのが本願である。

 本願は必ず成就する。それが本願力である。
 本願が成就したのが南無阿弥陀佛という正覚であり、極楽無為涅槃界、すなわちお浄土である。

 衆生は如来の正覚の功徳力にて往生する。すなわち南無阿弥陀佛の功徳力にて往生するのである。言い換えれば、如来の本願力にて往生するのである。

 浄土の荘厳は不可思議功徳であって、荘厳のまま佛身であり、また南無阿弥陀佛である。
 浄土の荘厳の一一の華の中よりは、三十六百千億の光明をてらして、その光明のうちに佛身を現じて、妙法を説きたもう。
 浄土の荘厳は、荘厳のまま娑婆世界に現れて、凡夫往生の大法門たる教行信証となり、また大部のお経となって下さったのである。
 
稲垣瑞劔師「法雷」第40号(1980年4月発行)

2022年1月9日日曜日

聞其名号より他なし

 禅宗で悟るには「自性(じしょう)」を見たらよい。これを「見性(けんしょう)」という。自性は「心性(しんしょう)」であり、心性は「佛性」である。佛性は山川草木そのものである。つまり法身佛を見たのが見性である、悟りである、佛である。これは難しい。今日の凡夫ができることではない。

 『観無量寿経』を拝見すると、第九真身観の文に言く
  「佛身を観ずる(心眼を以て見る)を以ての故に、亦佛心を見る。佛心とは大慈悲これなり。無縁の慈悲を以て、諸の衆生を摂す。この観を作す者は、身を捨てて他世に諸佛の前に生じ、無生忍(万物の無生(不生)を悟る)を得ん。この故に智者、まさに心を懸け諦かに無量寿佛を観ずべし」

と。これにて知るがよい、われら悪逆の凡夫としては、木を見ても石ころを見ても、直ちにこれを法身佛と観ずる(真如三昧)だけの智慧がない。それで釈迦如来が観佛三昧を教えてくださった。これすら今日の凡夫として出来る人は一人もない。
 それゆえに釈迦如来は念佛三昧を教えてくださった。
 念佛三昧は『大無量寿経』に来たって、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の信心正因にまで進まねばならぬ。
 釈迦如来の善巧方便を有り難く思わねばならぬ。

 ここで注意して『観経』の御文を拝見するがよい。無量寿佛を見奉ったら、無量寿佛から発するところの大慈悲の放射能にふれて、その放射能を身心に受け入れて、ここに信心成就して往生するのである。無量寿佛の威神功徳は、まことに不可思議ではないか。
 このお経を拝見して、阿弥陀如来は不可思議な佛様である、尊い佛様である、有り難い佛様である、たのもしいなあ!と思われたら、これすなわち信心である。
 信心も往生も、阿弥陀如来の功徳力用、霊的放射能のお陰であるということが分かるであろう。ここを
 「南無阿弥陀佛にて往生す」
 「阿弥陀如来の功徳力にて往生す」
というのである。如来様のこれらの放射能によりてのみ、衆生は疑心自力の火が消えて、信心歓喜して、大悲の親様を仰ぎ仰ぎ、念佛して往生するのである。

 如来様の放射能は不可思議であって、名号を聞いても、書いても、話しても、その放射能を受けるが、「聞其名号」と聞信するところ、すなわち名号の全放射能を身心に受けて信心歓喜するのである。南無阿弥陀佛は生きてござる。 
 われらの生命はこの一句にかかっておることを深く信じて、命懸けでこの一句に終生の努力を捧げるがよい。
 文字を覚え講釈を聞き、知識がいかに豊富になっても、学者知者になっても、何にもならぬ。ただ「聞其名号」と、名号の功徳力にて往生させていただくのである。

 浄土真宗は、文字言句ではない、知解分別でもない。また説明でもなければ、議論でもない。実際問題であり、事実の問題である。如来様が大智大悲の放射能を、不断に出しておられることも事実なれば、その放射能にふれることも事実である。
 恭敬(くぎょう)の心をもって名号を聞くところ、名号の放射能にふれることができる。これすなわち真実の信心である。お念佛するところ、また名号の放射能にふれることができる。
 名号を聞かせて、名号の放射能にふれさせて、信心歓喜せしめて、お浄土へ連れて行くというのが如来様の本願である。この本願がなかったならば、名号の放射能にふれることもできぬ。
 われらが念佛するから往生するのではない。如来様の大智大悲のお力で往生するのである。すなわち名号の功徳力用にて往生するのである。

 南無阿弥陀佛の大智大悲の放射能にふれて信心歓喜した人は、また本願力によりてお念佛を称える。すると不思議なことには、そのお念佛が放射能を出して、これを聞く人が信心歓喜するようになる。
 かくして、名号は不尽不滅に、十方に遍満することになる。

 信心は、自分が上手に説教したから他の人が信心を取るというものでなくて、名号の不可思議功徳の放射能を話すと、それを聞く人は、直接に名号の放射能にふれて信心歓喜するのである。いくら上手に説教したからとて、他の人に信心を得さすことができるものか。凡夫にはそんな力はない。

稲垣瑞劔師「法雷」第40号(1980年4月発行)

2022年1月1日土曜日

南無阿弥陀佛は生きておる

 信心は、佛の人格、または師匠の人格と自分の人格、人格と人格との触れ合いである。

 信心がいただけぬというのは、如来様や本願名号を死にものにしておるからである。お浄土も、如来様も、本願力も、名号も、死にものではないぞよ。

 浄土真宗は生きておる宗教である。如来の大生命の宗教である。名号も生きておれば、信心も生きておる。

 佛法は耳で聞くだけではあかん。お聖教から、礼拝から、本願名号から、大悲心から、佛智から、阿弥陀如来様から、また師匠の顔から、眼から、音声から、その信心の人格から、不断に発しておるところの光明の放射能を、日夜に何十年と受け取らぬことにはあかん。

  

 聖人のたまわく「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。

 阿弥陀如来の佛心・佛智から出る放射能は強い。これを南無阿弥陀佛といい、また無碍の光明という。

 聖人は無碍の光明によりて、無碍の光明のうちに安心安堵せられたのである。

 衆生の罪悪無智の闇を晴らすのは、唯だ阿弥陀如来の佛智・大悲の大心力たる南無阿弥陀佛の放射能である。それ以外の力では、煩悩の闇は晴れぬ。

 親鸞聖人の叡山二十年の修行も、阿弥陀如来の放射能でないものはなかった。

 また「化身土巻」に表白しておられるように、聖道門から浄土門に入り、十九願より二十願に回入し、二十願より十八願に転入せられたのも、一面から見れば聖人の体験、聖人の信心の歴程を物語るものであるが、その実のところは「法徳自然(ほっとくじねん)の妙益(みょうやく)」であって、如来の放射能が徹底する径路を物語っておるのである。

 真実信心に到るまでには、如来様は久遠の昔から、大悲の放射能を出しづめである。

稲垣瑞劔師「法雷」第39号(1980年3月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...