2022年2月24日木曜日
2022年2月20日日曜日
無明長夜のおほきなるともしびなり
往生は阿弥陀如来のひとりばたらき、と百千べん聞いていながら、いつの間にやら、どうしたら助かるであろうかと思い悩む心が起こるものである。迷うなよ、本願力が大悲の願船である。南無阿弥陀佛が生死の大海の燈炬である。
信心をいただいた、いただかぬ、という議論を止めて、必ず助けて下さる如来様の、佛智大悲の御本願をたのもしく思うがよい。
如来様には、無明煩悩を亡ぼし、往生成佛させて下さる無量の力があり、無量の功徳がある。それが本願力である。南無阿弥陀佛である。
如来様の前に坐ると、ひとりでに赤児になり、阿呆になる。そして、たのもしい。如来さまがたのもしい。
信心を得た人は、自分が信じておることすらも知らぬものである。信心や念佛に力こぶを入れておる人は、まだまだ聴聞が足らぬ。
阿弥陀如来は、尊い、不思議な不思議な佛様である。如来様が「親様である」ということが感ぜられたのを「信心」という。
どうしたら信心がいただけるかと問うことを止めよ。どうにかなって助かろうと思うておる。その心がくせ者だ。
如来様が有り難く思われたら、よくよくのお慈悲にあずかっておるのである。その他のことは理屈か偽物である。
真宗の学問は、往生は本願力によりて易中の易である,と知るだけのことである。
「誓願不思議」に助けられる以外に助かる道がない、と肚が極まったのを念佛行者という。
念佛は出たらよし、出なければよし。よろこびが出たらよし,出なければよし。大悲の親様は、いつも照らしづめ、いつも喚びづめである。
凡夫の心は澄み切ることはあり得ない。夜の夢では何十人でも人殺しをする。
心が濁らば濁れ、澄めば澄め。往生は唯だ本願力に乗ずるのみ。
此の世五十年乃至百年は、因果の道理をわきまえ、業報の恐ろしいことを思うて、つつしみつつしみ暮らすべきである。無常迅速、生死の問題は大きいぞ。うかうかするなよ。
如来様の方では、極楽より外に行き場のないようにして下さっている。極楽参りと極めていただいていても、此の世は辛い、苦しいものである。
宿とれど 日暮れの雪の 寒さかな(瑞劔師)
苦しいことがしばしば起こってきたら、「因果業報はおそろしいものだなあ」と思え。因果を教えて下されたお釈迦さまがまた「本願真実」もお説き下された。自身の往生は間違いないと思うがよい。
2022年2月16日水曜日
2022年2月12日土曜日
本願名号が私の上にはたらいて
2022年2月8日火曜日
2022年2月4日金曜日
示形垂名してくださる
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佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておること...
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さらに道元禅師は「生死」の巻に曰く、 「これをいといすてんとすれば、すなわち佛の御いのちをうしなわんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このとき、はじめて佛のこころに入る...
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露の命であるから、自分の生死の問題は急を要する。地獄の猛火がひざの下から、えんえんと燃え上がっておる。その中で佛法を聞く。 その瞬間に佛法の真味を体得せねばならぬ。それは、如来の大慈悲本願力を、しみじみ感ずることである。 稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)