2022年2月12日土曜日

本願名号が私の上にはたらいて

 阿弥陀如来の本願というは、南無阿弥陀佛を聞かせて信ぜしめて、極楽へ迎え取らんと誓いたもうたのを「本願」という。
 ゆえに本願と名号は不二一体である。
 ゆえに六字釈は本願論であり、本願力を仰ぐことが六字釈である。

 六字というと文字であるとばかり思って、死にものに取り扱っては六字釈は分からぬ。
 お六字は生きてござる。久遠劫の昔から生きてござる。天地と共にその生命を一(いつ)にして、しかも「不可思議の功徳」のかたまりである。

 多くの人は、自分が念佛称えたら、自分が称えた力で往生するように思うておる。これらの人を二十願の部類の人という。
 第十八願の信心、第十八願の念佛というは、自分が信じたから、自分が称名の善根を積んだから往生するのだといった、倫理的・道徳的の行為とは全く訳が違う。
 如来様の行を如来様が行じてくださった、その本願力を、今、此処に見させていただくのが、今日の我等の念佛である。

稲垣瑞劔師「法雷」第42号(1980年6月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。
『歎異抄』第11条

土見誠輝 さんのコメント...

誓願と名号の不可思議なはたらきは一つであって、異なったものではないということです。

光瑞寺 さんのコメント...

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなり」
名号の不可思議力によって誓願の信を恵まれ、願力回向の信心より称名が響き流る。
これを『執持鈔』には「本願や名号、名号や本願」とのお示しです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...