阿弥陀如来の本願というは、南無阿弥陀佛を聞かせて信ぜしめて、極楽へ迎え取らんと誓いたもうたのを「本願」という。
ゆえに本願と名号は不二一体である。
ゆえに六字釈は本願論であり、本願力を仰ぐことが六字釈である。
六字というと文字であるとばかり思って、死にものに取り扱っては六字釈は分からぬ。
お六字は生きてござる。久遠劫の昔から生きてござる。天地と共にその生命を一(いつ)にして、しかも「不可思議の功徳」のかたまりである。
多くの人は、自分が念佛称えたら、自分が称えた力で往生するように思うておる。これらの人を二十願の部類の人という。
第十八願の信心、第十八願の念佛というは、自分が信じたから、自分が称名の善根を積んだから往生するのだといった、倫理的・道徳的の行為とは全く訳が違う。
如来様の行を如来様が行じてくださった、その本願力を、今、此処に見させていただくのが、今日の我等の念佛である。
稲垣瑞劔師「法雷」第42号(1980年6月発行)
3 件のコメント:
誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。
『歎異抄』第11条
誓願と名号の不可思議なはたらきは一つであって、異なったものではないということです。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなり」
名号の不可思議力によって誓願の信を恵まれ、願力回向の信心より称名が響き流る。
これを『執持鈔』には「本願や名号、名号や本願」とのお示しです。
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