お念佛の中に名号不思議を感知せしめられる。
佛智の不思議、佛智の回向によりて、不思議を不思議と信知せしめられる。
良きにつけ悪しきにつけ、楽しきにつけ苦しきにつけ、如来さまが常に我が身に付いていて下さることを感じさせられる。佛智の御回向まことに忝い。かくて念佛が精み(いさみ)の念佛となる。
お念佛が前か、願力不思議が前か、それはともかくとして、念佛の中に「およびごえ」を聞き、たのもしく思われる。
考えようによると、信心は易いが世渡りは難しい。明日死ぬか、乞食になるか、最悪を覚悟して、しかも今日の一日は、正直・勤勉・親切で、最善を尽くすべきである。
「好きこそものの上手なれ」で、佛法を好きにならぬと、法悦三昧境へは入られぬ。好きになったのが、早や回向の賜物である。
佛法は、頭の中で考えておる間は佛法でない。口で言うのは下の下である。血となり、肉となったのでなくてはほんまものでない。学徒はすべからく、「学」「徳」「信」でやるべきである。「熱」は自ずから生まれてくる。
佛法は法界統一論まで進まなくてはならぬ。釈尊と法蔵菩薩の三昧海には、法界が統一されている。法界統一論の具体的のものは『教行信証』である。お聖教、佛語をもって宇宙人生を統一すべきである。
『教行信証』がわからなければ、佛教の統一がわからぬ。法界は一法身である。「設我得佛十方衆生」は、阿弥陀如来の法界統御のすがたである。
困った時には、その事件をしばらく措いて、一夜 佛法三昧になって、佛法に心身を忘れるがよい。不思議に人生は解決する。お聖教を読んで、解決されない問題はない。
佛法は文字に非ず、理屈に非ず、如来の人格と私の人格との接触(ふれあい)である。如来の人格に打たれ切ったのを信心という。
唯だ佛語を信受するところ感応道交(かんのうどうこう)がある。感応道交は如来救済の原理である。(『法華玄義』)
「信ずる」と言えばこちらから進む言葉であるが、ほんとうの信心は如来の御回向である。南無阿弥陀佛の本願力の「よびごえ」のほかに、信一つも行一つも加えざるは浄土真宗である。
禅宗の人は、禅が有り難くなったら、禅が一先ず手に入ったというものであろう。念佛の人は、念佛の法門がおもしろくなったら、念佛が手に入ったというものであろう。
まず教行信証眼(一乗眼)を作って、しかるのち三経七祖を拝読するがよい。
『和讃』はそのまま『教行信証』と思うべし。『和讃』の研究に三十年かかると思えば『和讃』が粗末にならぬ。それほど研究して味わっても味わっても、滾々として尽きせぬ味わいがある。僧侶にも俗人にも、『和讃』ほどよいものはない。
大信心は、如来大悲の回向であり、如来の三昧海(禅定)は法界の自然である。
一切の法門は三昧海より生まれたものである。お浄土も阿弥陀如来の三昧海よりおこり、智慧海よりおこり、誓願海よりおこったものである。
稲垣瑞劔師『法雷』第51号(1981年3月発行)
2 件のコメント:
ほんとうの信心は如来の御回向である。
・・・
大信心は、如来大悲の回向であり、
とありますが、寸分違わずに、同じ事を繰り返し繰り返し教えていただいております。
有り難い事であります。
繰り返し味わうことのできる妙味、うれしいことです。
実は、文字を打っていた本人は繰り返しに気付いていませんでした。
公開・共有することの徳ですね。
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