2022年4月12日火曜日

信心銘

お念佛の中に名号不思議を感知せしめられる。


佛智の不思議、佛智の回向によりて、不思議を不思議と信知せしめられる。


良きにつけ悪しきにつけ、楽しきにつけ苦しきにつけ、如来さまが常に我が身に付いていて下さることを感じさせられる。佛智の御回向まことに忝い。かくて念佛が精み(いさみ)の念佛となる。


お念佛が前か、願力不思議が前か、それはともかくとして、念佛の中に「およびごえ」を聞き、たのもしく思われる。


考えようによると、信心は易いが世渡りは難しい。明日死ぬか、乞食になるか、最悪を覚悟して、しかも今日の一日は、正直・勤勉・親切で、最善を尽くすべきである。


「好きこそものの上手なれ」で、佛法を好きにならぬと、法悦三昧境へは入られぬ。好きになったのが、早や回向の賜物である。


佛法は、頭の中で考えておる間は佛法でない。口で言うのは下の下である。血となり、肉となったのでなくてはほんまものでない。学徒はすべからく、「学」「徳」「信」でやるべきである。「熱」は自ずから生まれてくる。


佛法は法界統一論まで進まなくてはならぬ。釈尊と法蔵菩薩の三昧海には、法界が統一されている。法界統一論の具体的のものは『教行信証』である。お聖教、佛語をもって宇宙人生を統一すべきである。


『教行信証』がわからなければ、佛教の統一がわからぬ。法界は一法身である。「設我得佛十方衆生」は、阿弥陀如来の法界統御のすがたである。


困った時には、その事件をしばらく措いて、一夜 佛法三昧になって、佛法に心身を忘れるがよい。不思議に人生は解決する。お聖教を読んで、解決されない問題はない。


佛法は文字に非ず、理屈に非ず、如来の人格と私の人格との接触(ふれあい)である。如来の人格に打たれ切ったのを信心という。
唯だ佛語を信受するところ感応道交(かんのうどうこう)がある。感応道交は如来救済の原理である。(『法華玄義』)


「信ずる」と言えばこちらから進む言葉であるが、ほんとうの信心は如来の御回向である。南無阿弥陀佛の本願力の「よびごえ」のほかに、信一つも行一つも加えざるは浄土真宗である。


禅宗の人は、禅が有り難くなったら、禅が一先ず手に入ったというものであろう。念佛の人は、念佛の法門がおもしろくなったら、念佛が手に入ったというものであろう。


まず教行信証眼(一乗眼)を作って、しかるのち三経七祖を拝読するがよい。


『和讃』はそのまま『教行信証』と思うべし。『和讃』の研究に三十年かかると思えば『和讃』が粗末にならぬ。それほど研究して味わっても味わっても、滾々として尽きせぬ味わいがある。僧侶にも俗人にも、『和讃』ほどよいものはない。


大信心は、如来大悲の回向であり、如来の三昧海(禅定)は法界の自然である。
一切の法門は三昧海より生まれたものである。お浄土も阿弥陀如来の三昧海よりおこり、智慧海よりおこり、誓願海よりおこったものである。

稲垣瑞劔師『法雷』第51号(1981年3月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

ほんとうの信心は如来の御回向である。
・・・
大信心は、如来大悲の回向であり、

とありますが、寸分違わずに、同じ事を繰り返し繰り返し教えていただいております。
有り難い事であります。

光瑞寺 さんのコメント...

繰り返し味わうことのできる妙味、うれしいことです。
実は、文字を打っていた本人は繰り返しに気付いていませんでした。
公開・共有することの徳ですね。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...