いざ臨終となると、頭はぼうとして、心は千々に乱れ、今まで覚えたことも、聞いたことも、どこへやら吹き飛んでしまう。病気の苦しみで、油のような汗を流して、吐く息ばかりである。眼も見えぬようになり、耳も聞こえぬようになる。
それでも有難い、願力摂取はまことであるから。親様は付いていてくださる。人間は絶対無力にならぬと、本願他力の味は分からぬ。「死」は厳粛である。
佛法は自己の生死解脱が先決問題である。信心の光のみが真に社会を浄化する。
誰も彼も、往生はただ願力摂取によって往生するのであるから、こちらとしては、ほんとうに「ただのただ」である。それでこそ一味の安心と言える。「ほんにまあ、ただのただであった」と実感の琴線から出る言葉は尊い。
その人の人格を信ぜぬ人に、いくら法を聞いたとて損をすることが多い。先ず自己が信頼する人を捜し求めよ。信心の人あれば法は得やすく、人がなければ信心は得難い。
お釈迦様の智慧と慈悲と、悟りの深さは、あまりに深くて分からぬ。深さが分からぬと言う人は、佛智不思議に満足しきった人である。お釈迦様が佛陀であると知られたら、その人はえらい人だ。
佛法者のよろこび、眼の光り、口の動き、歩き振りまで、その底に不可思議な何ものかがあるように感ぜられる。智慧光が底に躍動しておるのである。
日頃佛法に心を寄せておると、心静かに、ぼんやりしておる間にも、無意識の霊感がある。
一生懸命に佛法をやっておると、天魔外道もどうも手の出しようがないと見える。心を浮世の泥水にのみ浸けておると悪魔がつけ込む。
こちらは忘れていても、如来さまは心臓の鼓動の中にも、呼吸の中にも、血管の中にまで入って、いつも付いてござるから、人生力強く、心静かに働けるのである。これは心光常護の益である。
いつも如来さまの前に引き出され、いつも如来さまに憶念され、いつも如来さまが付いていて下さっておると思えば、自分は赤児のような気持ちになり、大船に乗ったような心地がする。
「これが信心じゃ」というものは、自分の心の中を探ってみても見つからぬ。ただ不可思議に親様がたよりになる。佛法は「如来さまがありがたい」という気持ちである。それが自ずから口にあらわれるのが、お念佛である。
稲垣瑞劔師「法雷」第53号(1981年5月発行)
2 件のコメント:
「これが信心じゃ」というものは、自分の心の中を探ってみても見つからぬ。
とありますが、
「心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。」
(『蓮如上人御一代記聞書』第213条)
と教えていただいております。
さすが蓮如様は心得たるものの機微に通じていらっしゃいます。
私など未熟なものは「自分の心の詮索は無用」とのお示しに従う方が怪我がないように思われます。
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