2022年5月4日水曜日

如来さまが付いていて下さる

 いざ臨終となると、頭はぼうとして、心は千々に乱れ、今まで覚えたことも、聞いたことも、どこへやら吹き飛んでしまう。病気の苦しみで、油のような汗を流して、吐く息ばかりである。眼も見えぬようになり、耳も聞こえぬようになる。
 それでも有難い、願力摂取はまことであるから。親様は付いていてくださる。人間は絶対無力にならぬと、本願他力の味は分からぬ。「死」は厳粛である。

 佛法は自己の生死解脱が先決問題である。信心の光のみが真に社会を浄化する。

 誰も彼も、往生はただ願力摂取によって往生するのであるから、こちらとしては、ほんとうに「ただのただ」である。それでこそ一味の安心と言える。「ほんにまあ、ただのただであった」と実感の琴線から出る言葉は尊い。

 その人の人格を信ぜぬ人に、いくら法を聞いたとて損をすることが多い。先ず自己が信頼する人を捜し求めよ。信心の人あれば法は得やすく、人がなければ信心は得難い。

 お釈迦様の智慧と慈悲と、悟りの深さは、あまりに深くて分からぬ。深さが分からぬと言う人は、佛智不思議に満足しきった人である。お釈迦様が佛陀であると知られたら、その人はえらい人だ。

 佛法者のよろこび、眼の光り、口の動き、歩き振りまで、その底に不可思議な何ものかがあるように感ぜられる。智慧光が底に躍動しておるのである。

 日頃佛法に心を寄せておると、心静かに、ぼんやりしておる間にも、無意識の霊感がある。
 一生懸命に佛法をやっておると、天魔外道もどうも手の出しようがないと見える。心を浮世の泥水にのみ浸けておると悪魔がつけ込む。

 こちらは忘れていても、如来さまは心臓の鼓動の中にも、呼吸の中にも、血管の中にまで入って、いつも付いてござるから、人生力強く、心静かに働けるのである。これは心光常護の益である。

 いつも如来さまの前に引き出され、いつも如来さまに憶念され、いつも如来さまが付いていて下さっておると思えば、自分は赤児のような気持ちになり、大船に乗ったような心地がする。

 「これが信心じゃ」というものは、自分の心の中を探ってみても見つからぬ。ただ不可思議に親様がたよりになる。佛法は「如来さまがありがたい」という気持ちである。それが自ずから口にあらわれるのが、お念佛である。

稲垣瑞劔師「法雷」第53号(1981年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「これが信心じゃ」というものは、自分の心の中を探ってみても見つからぬ。

とありますが、
「心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。」
(『蓮如上人御一代記聞書』第213条)
と教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

さすが蓮如様は心得たるものの機微に通じていらっしゃいます。
私など未熟なものは「自分の心の詮索は無用」とのお示しに従う方が怪我がないように思われます。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...