2022年6月30日木曜日

くれぐれも

 お聖教の文字は如来様の言葉であり、如来様であり、大慈悲心で大慈悲心が書きあらわされたものであるから、くれぐれも尊くいただくところに信心は得られる。

 『教行信証』の文字は如来様の法身の光輪であり、また佛智と大悲心そのものであり、また聖人の法身であるから、いただけばいただく度毎に「此処じゃがな」「是れじゃがな」と文字が教えて下さる。
 三遍、十遍、三年、五年、十年で分からなかったことを、三十年目に、また五十年目に教えて下さることがある。お聖教はそうしたものである。

 巻頭和讃に曰く
 弥陀の名号となへつつ
  信心まことにうるひとは
  憶念の心つねにして
  佛恩報ずるおもひあり
と。これは聖人の信心の人格の丸出しである。聖人の御己証の浄土真宗、信心正因の全貌である。
 講釈すれば尽きぬ話であるが、文字を飛び越えて、聖人に直々に遇ったような気がする。

稲垣瑞劔師「法雷」第57号(1981年9月発行)

2022年6月25日土曜日

善人と悪人

 善人になれもせず、善人になる必要もなし。悪人はもとより凡夫の地性。
 悪はつつしみて善に就くように心掛けねばならぬ。それはこの世のこと。また佛法に瑕が付かぬようにするための報恩行の世界である。

 凡夫が佛に成るのには、善もいらぬ、まして悪もいらぬ。「いらぬ いらぬ」が極楽参りのすがたである。
 何何せねばならぬと思う、「ならぬ ならぬ」は地獄行きのすがたである。
 薬があるから毒をいくら飲んでも構わぬという人がある、「かまわぬ かまわぬ」も地獄行きのすがたである。

 さてどうなるか、「ならぬ ならぬ」と「かまわぬ かまわぬ」と両頭を截断して、一剣天に倚って寒しといったところは、如来様の本願力である。
 本願力の利剣は見事に「ならぬ」の頭も刎ね「かまわぬ」の頭も刎ね、佛願力のひとりばたらきで、易々と浄土へ往生させていただくのである。

 この世の善悪も信心の徳として、あまり気を使わずに、ひとりでに守られるのが不思議である。
 信徳不思議の道徳は味わいだけのことじゃ。道理も理屈もない。妙な世界じゃ。

稲垣瑞劔師「法雷」第56号(1981年8月発行)

2022年6月20日月曜日

妙好人

 妙好人という人がある。あれはあれ、わしはわしじゃ。
 妙好人が何がけなるい(うらやましい)か。あの花は赤う咲いているのよ。わしは白う咲いているだけのこと。往生は赤う咲こうが白う咲こうが、乃至紫に、黄色に、どういう色にでも咲かせてもらう通りに咲けばよいでないか。
 妙好人伝といったものが出るから、迷う人が多く出るのや。妙好人に迷うようでは「親鸞一人がためなりけり」は、どうなったであろうか。

 妙好人はよい人じゃ、えらい人じゃ。それには間違いないが、あまりに美しいお手本を見せ付けられると毒になる。凡夫は美しいものと違う。
 きたないものがきたなく咲くのに、何の不思議があろうか。このきたないのを見させてくださった如来の真実心の美しさ、あの美しさを見とれているのが私の役目じゃ。自分が美しくなって何になる。他人様から美しう見えたら、大方は似せものかも知れぬ。
 そうかと言うて、強いて泥棒することもいらぬ。嘘つくこともいらぬ。いらぬいらぬの日暮らしの気楽さ。

稲垣瑞劔師「法雷」第56号(1981年8月発行)

2022年6月15日水曜日

念佛すなわち南無阿弥陀佛

  • 念佛に勝る善はない。如来大悲の丸出しであるからである。自分が称えて参ろうと気張るのは、浅ましい自力のはからいである。
  • 法然上人が「念佛すれば往生する、称えよ称えよ」と仰せられるのは、「本願力一つじゃぞ」とお示しくださるこころである。念佛を勧められるのは、名号の徳をあらわして下されているのである。
  • 他力とは如来の本願力である。網で魚を捕るようなものではない。如来様は大悲本願力の電気で衆生を「ああ、有り難や」と躍り上がらすのを他力という。 
  • 世間では、滝にも打たれず、水もかぶらず、お百度参りもせず、坐禅もしない者が何で佛に成れるものかという。
    真宗の修行というのは佛智の不思議を信ずる信心が、それが如実の修行である。
    また信心の上からの讃嘆の称名が、如実の修行である。単にお念佛を称えることが修行ではない。
    親鸞聖人は「一心(三心即一の信楽)是を如実修行相応と名づく、すなわち是れ正教なり、是れ正行なり、是れ正解なり、是れ正業なり、是れ正智なり」と仰せられた。
稲垣瑞劔師「法雷」第55号(1981年7月発行)

2022年6月13日月曜日

この愚か者を 親様なればこそ

  • 有と無とに囚われているものが凡夫である。有無の見から愛憎の念が起こる。それから貪欲と瞋恚と愚痴の三毒の煩悩が起こり、三毒から八万四千の煩悩が起こるのである。生死生死と流転しておる我らには、いずれが先ということもない。
  • 人間が地獄へ落ちるのは、蚕が自分の吐き出した糸に縛られて、糸のために煮殺されるようなものである。
  • 無明煩悩がどんなものやら、どこから湧いてきたものやら知らねども、自分に無明煩悩が有るということは事実だから仕方がない。それがために生死が常につきまとうてくるのである。『般若心経』には「無明も無く、亦無明の尽くることも無し」とある。味わうべきである。
  • 人間は真に善い事ができないくせに、善い事をしようと思う。その心はよいが、一寸善い事をすると、直ぐそれを鼻に掛ける。自慢をする。他人に見せつける。そうしないまでも、自分の心に「善い事をした」ということを自慢そうに覚えておる。その心は凡夫心である。それで佛に成れないのである。
  • 人間は悪いことばかりをする動物であるが、どこかに如来様のお助けにあずかる性根があると見える。如来様の子として、如来様に可愛がられるだけの徳がある。それが尊いことである。
  • 我らはいつも如来様の御照覧を被り、如来様の前に引き出されている。されば「恥ずかしい」より外に思いはない。
  • お浄土も如来様の心であり、身である。お浄土までが声を出して喚んでおる。如来様と一つになって喚んでおる。それを佛の欲生心という。佛の大悲回向心である。
稲垣瑞劔師「法雷」第55号(1981年7月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...