信心はいただけるものとも言える、いただけぬものとも言える。
凡夫として清浄真実の信心が起こらぬのがほんまじゃ。起こったら、そら不思議、願力の不思議じゃ。
いただけぬ信心をいただいてこそ不思議がある。自分の力でいただいたのなら不思議がない。不思議でない信心は役に立たぬ。すべてはからい、自力の信心じゃ。
凡夫として清浄真実の信心が起こらぬのがほんまじゃ。起こったら、そら不思議、願力の不思議じゃ。
いただけぬ信心をいただいてこそ不思議がある。自分の力でいただいたのなら不思議がない。不思議でない信心は役に立たぬ。すべてはからい、自力の信心じゃ。
自分が努力してもいただけぬ信心、努力せずにいては尚更いただけぬ信心。さて、ここのところがどう収まるか。
ただ仰せに順う、「順」の一字あるのみである。
「順う」のが往生の鍵じゃ、鍵を忘れては金庫は開かぬ。「順う」世界に自力はない。
智者も愚者も、一味の安心。早う「順」の一字の味を味わっておくれ。
ただ仰せに順う、「順」の一字あるのみである。
「順う」のが往生の鍵じゃ、鍵を忘れては金庫は開かぬ。「順う」世界に自力はない。
智者も愚者も、一味の安心。早う「順」の一字の味を味わっておくれ。
稲垣瑞劔師「法雷」第58号(1981年10月発行)
2 件のコメント:
浄土真宗においては、「信心」は、
如来よりたまはりたる信心であって、
自分で起こす信心ではありません。
と教えていただいております。
天岸浄圓師の講義でお聞きしたのですが、
宗祖は「善信が信心も聖人の御信心も一つなり」とまでは言えたがその根拠は示せなかった、法然聖人の「如来よりたまはる」というお言葉によって初めて如来回向の信心というかたちが与えられた、云々
耳慣れしまっていた「如来よりたまわる信」という信心のありようが、いかに大きな転換だったかを教えていただきました。
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