佛教をやっても、行いができなければ何にもならぬと言う人がある。
佛が分かれば、佛を憶念する。憶念不断なれば、人間が知らず識らずのうちに、身も心も、行いも、血液の一滴までもが佛法になる。
考えて、力みかえって、理屈をつけて行動したり、物を言ったりしては、まだまだ佛法の門口である。
身も心も佛法になれば、その時分には、全身が本願力に流され、佛智不思議に同化された時である。
生死の問題のごときは頭で考える問題でなくて、如来さまに自由にされることが、生死を離れたのである。
よしあしを考えて、佛力・佛願を疑っていては、生死の問題は解決できない。
稲垣瑞劔師「法雷」第59号(1981年11月発行)
2 件のコメント:
佛が分かれば、佛を憶念する。
とありますが、
憶念はすなはちこれ真実の一心なり。(『教行信証』信巻)
と教えていただいております。
憶念と真実信心は、同じであると見られているのです。
貪りと怒りばかりの愚痴の胸に、佛さまを憶念する心が宿って下さった。これは不思議な、尊いことです。堅く信決定した心であり、大智大悲を憶念する無上の真実心であり、作佛・度生と無限に展開し、佛道を究めてゆく心であります。
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