知識学問は道ではない。参考書や註釈書を取り上げてしまったら何も言えぬというのは、知ったことが道であるかのごとく誤解しておる人に、往々ある話である。
安心もその通りで、今まで聞いて覚えたことを皆捨ててしまって何が残るか。甚だ心細い感じがするであろう。そういう人は、如来様とも対面せず、本願をいただかぬ人である。
知った智慧も、心得たと思う心も捨ててしまって、尚且つ本願力という大事実がたのもしいとなると、それこそ、まことに まことに、佛願力の御廻向のたまものである。
佛法も五十年ほど本気でやると、一寸分かる。何が分かるか。
「何にも分からぬ」ということが分かる。「わしはあかんものや」ということが分かる。
「佛法は尊いものや」「恐ろしいものや」「ありがたいものや」ということが分かる。
「佛と佛願力とは、不思議の中の不思議じゃ」ということが分かる。
聞く耳持たぬのに聞き、信ずる力もないのに信じさせられ、いつの間にやら、願力の不思議に引かれ、負われて、彼の土へ往生する幸をよろこぶ身になれる。
これは、どんな人でもなれる。うかうか聞く人はなれぬ。
稲垣瑞劔師「法雷」第62号(1982年2月発行)
2 件のコメント:
「本願力」や「佛願力」とあり、いずれも同じ意味ですが、
どちらかと言えば「佛願力」と使われることの方が少ないかもしれません。
「本願力」や「佛願力」は、
「因位のすがたである法蔵菩薩の願いのとおりのはたらき」という表現であるのに対して、
「他力」や「仏力」は、
「果位のすがたである阿弥陀仏のはたらき」という表現であるとありました。
因位の本願から窺う言い方と、果位の佛徳から仰ぐ言い方とで分けているのということでしょうか。
「不虚作住持功徳成就」と構造が似ているように感じました。
「不虚作住持功徳成就」とは、蓋しこれ阿弥陀如来の本願力なり。乃至 いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによりてなり。(真佛土巻に引用)
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