2022年8月20日土曜日

至心回向したまへり

 自力の教えはむつかしい。他力の教えは易い、易すぎてむつかしい。
 自力の教えは、宇宙と心との首を取る教えで、取るというても取らずに取る方法で、むつかしい。
 他力の教えは、如来様のおまことを感ずる教えである。耳で聞いて、心のどん底に染みわたる教えである。
 佛様のまことが強いものじゃから、きっと染みわたる、沁み込む。
 佛様が、まことのお六字となって、血液の一滴毎に、骨の髄までも徹ってくださるのである。
 耳で聞いて、心に「あれがどうの」「これがどうの」と合点ばかりして、凡夫の心ではからう教えではないのである。
 如来の佛心の電気に感じ、その電気の力でお浄土へ参らせていただく教えである。
 それ今もかかっている、自分が知らぬ間にもかかっている。
 佛心の電気が、本願力というものや。如来様の一人ばたらきとは、このことじゃ。ゆめゆめ思い違いをして、往生の大益を仕損じてはなりません。

稲垣瑞劔師「法雷」第61号(1982年1月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「他力の教えは易い、易すぎてむつかしい。」
とありますが、

何が易しくて、何がむつかしいのか。
行ずるのは易しいのですが、難信の法であるのです。

光瑞寺 さんのコメント...

「易しくて、むつかしい」とは実際味わうた方の言葉、深い奥行きを感じる言葉ですね。
如来様のなさる仕事は、通り一遍の言葉では語れないのでしょう。

空手にて いたゞく寳 無尽蔵

 今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。 役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。 「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。 念佛者は、信心歓喜の生活である。 稲垣瑞劔師「法雷」第91号(198...