自力の教えはむつかしい。他力の教えは易い、易すぎてむつかしい。
自力の教えは、宇宙と心との首を取る教えで、取るというても取らずに取る方法で、むつかしい。
他力の教えは、如来様のおまことを感ずる教えである。耳で聞いて、心のどん底に染みわたる教えである。
佛様のまことが強いものじゃから、きっと染みわたる、沁み込む。
佛様が、まことのお六字となって、血液の一滴毎に、骨の髄までも徹ってくださるのである。
耳で聞いて、心に「あれがどうの」「これがどうの」と合点ばかりして、凡夫の心ではからう教えではないのである。
如来の佛心の電気に感じ、その電気の力でお浄土へ参らせていただく教えである。
それ今もかかっている、自分が知らぬ間にもかかっている。
佛心の電気が、本願力というものや。如来様の一人ばたらきとは、このことじゃ。ゆめゆめ思い違いをして、往生の大益を仕損じてはなりません。
稲垣瑞劔師「法雷」第61号(1982年1月発行)
2 件のコメント:
「他力の教えは易い、易すぎてむつかしい。」
とありますが、
何が易しくて、何がむつかしいのか。
行ずるのは易しいのですが、難信の法であるのです。
「易しくて、むつかしい」とは実際味わうた方の言葉、深い奥行きを感じる言葉ですね。
如来様のなさる仕事は、通り一遍の言葉では語れないのでしょう。
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