2022年8月15日月曜日

多くを求むること勿かれ

 「若不生者、不取正覚」を明けても暮れても、念頭から離さずに、これを念じつめておると、佛智の不思議によって、その真意が、感応道交の妙をあらわして、往生の一路がきまる。往生の自覚が得られる。往生は自覚のないぼんやりしたようなものではない。

 その自覚をどうして得るかというと、「若不生者、不取正覚」の本願力と感応道交するところに自覚を得るのである。
 この自覚は自覚というものの、自分が自力で作った自覚でない。自覚を得ようと思って得られた自覚でない。「若不生者」の本願力が、そのまま私の往生の自覚である。本願力のうちに安心するのである。本願力のうちに信心獲得するのである。本願力をぬきにして、信心もなく、また往生もない。

 若不生者という信心一たびおこれば、一生涯これを使用して何も不自由はせぬ。一を以て万事をつらぬく。これが分かれば一生涯、その光明のうちに無碍の一道が開けてくる。

 本願力の勅命のほかに信心なく、お助けはない。信一つも行一つもこちらから加えるものなし。ただ是れ「若不生者、不取正覚」である。
 二種の深信が本当に出来たら、それが往生の自覚というものである。二種の深信を元へ返せば「若不生者」の本願力一つである。

 「若不生者」と「不取正覚」の間には、間髪を容れない。「佛が衆生を救うのが本願じゃ」などと、佛と衆生との間に余裕があり、隙間があるようでは本願でない。

 佛と言えば衆生があり、衆生と言えば佛がある。私が往生すると言えば、如来の正覚があり、如来の正覚と言えば私の往生がある。機法一体、佛凡一体は本願のうちに早やちゃんと御成就である。
 さればこそ、機の受け心も払われる、聞き損ないがないような聞き方ができる。
 如来様と私の間に髪の毛一本ほども隙間が空いていたら、私は助からぬ、如来様は正覚を成じたまわぬのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第60号(1981年12月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「若不生者、不取正覚」

読み下しは、
「もし生ぜずは、正覚を取らじ。」

現代語訳
「もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」

ここにある「わたし」は、法蔵菩薩様が誓われたお言葉ですから、法蔵菩薩様ご自身のことになります。

光瑞寺 さんのコメント...

そうですね、「お前を抜きにしてわたしは無いぞ」とお誓いくださいました。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...