「若不生者、不取正覚」を明けても暮れても、念頭から離さずに、これを念じつめておると、佛智の不思議によって、その真意が、感応道交の妙をあらわして、往生の一路がきまる。往生の自覚が得られる。往生は自覚のないぼんやりしたようなものではない。
その自覚をどうして得るかというと、「若不生者、不取正覚」の本願力と感応道交するところに自覚を得るのである。
この自覚は自覚というものの、自分が自力で作った自覚でない。自覚を得ようと思って得られた自覚でない。「若不生者」の本願力が、そのまま私の往生の自覚である。本願力のうちに安心するのである。本願力のうちに信心獲得するのである。本願力をぬきにして、信心もなく、また往生もない。
若不生者という信心一たびおこれば、一生涯これを使用して何も不自由はせぬ。一を以て万事をつらぬく。これが分かれば一生涯、その光明のうちに無碍の一道が開けてくる。
本願力の勅命のほかに信心なく、お助けはない。信一つも行一つもこちらから加えるものなし。ただ是れ「若不生者、不取正覚」である。
二種の深信が本当に出来たら、それが往生の自覚というものである。二種の深信を元へ返せば「若不生者」の本願力一つである。
「若不生者」と「不取正覚」の間には、間髪を容れない。「佛が衆生を救うのが本願じゃ」などと、佛と衆生との間に余裕があり、隙間があるようでは本願でない。
佛と言えば衆生があり、衆生と言えば佛がある。私が往生すると言えば、如来の正覚があり、如来の正覚と言えば私の往生がある。機法一体、佛凡一体は本願のうちに早やちゃんと御成就である。
さればこそ、機の受け心も払われる、聞き損ないがないような聞き方ができる。
如来様と私の間に髪の毛一本ほども隙間が空いていたら、私は助からぬ、如来様は正覚を成じたまわぬのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第60号(1981年12月発行)
2 件のコメント:
「若不生者、不取正覚」
読み下しは、
「もし生ぜずは、正覚を取らじ。」
現代語訳
「もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」
ここにある「わたし」は、法蔵菩薩様が誓われたお言葉ですから、法蔵菩薩様ご自身のことになります。
そうですね、「お前を抜きにしてわたしは無いぞ」とお誓いくださいました。
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