平生達者な時には「南無阿弥陀佛で往生するのだ」「本願力で参らせていただくのである」と、おぼろげに聞いておぼろげに覚えておるのであるが、一旦大病にかかり、医者が手を放して、否でも応でも今度は娑婆のお暇乞いとなったら、平生起こらなかった「疑い」「はからい」「不安」「恐怖の念」が油然として湧き起こるものである。恐ろし、恐ろし。
その不安とは、「本当に自分は極楽に参られるであろうか」「地獄へ落ちるのではなかろうか」という疑いの不安である。
「自分は参れるか」「本当に参れるか」「参られんか」と真剣になって自分の心に、ひそかに問うてみるがよい。口では参られると言うてはいても、自分の心は「参られる」とも「参られぬ」とも、きっぱり返答してくれぬであろう。
ここのところが大切じゃ。
臨終は今じゃ。今が臨終じゃ。大病は今じゃ。今が大病にかかっている時じゃ。
自力疑心というものは、平素は美しい顔をして影を隠しておるようであるが、さてとなった時に、むくむくと顔を出すものである。「これは」と驚きおそれても、善知識もなく、教えてくれる人もない。それで一生を棒に振ってしまう。お寺参りする人でも、大方はこの種の人ばかりである。
この病の根源は、「自分は佛法を聞いた」「自分はもう聞こえておる」「自分は信心をいただいておる」という自惚れと憍慢と怠惰(なまくら)とが、この病気の根源である。
このような病を退治するには、平生から
「本願力が大きいで、ただで、このまま参らせてくださる、ありがたいことや」
と毎日毎日、口で言い、心に思い思いしておることが大切である。
この口癖が、ついにほんまものになって真実の信心となる。
御和讃でも御文章でも、お聖教の言葉を、毎日憶念し、口癖にしておれば尚更よろしい。
稲垣瑞劔師「法雷」第62号(1982年2月発行)
2 件のコメント:
この病の根源は、「自分は佛法を聞いた」「自分はもう聞こえておる」「自分は信心をいただいておる」という自惚れと憍慢と怠惰(なまくら)とが、この病気の根源である。
とありますが、
心は答えてくれぬ
自分の心はあてにならないということです。
尋ねる相手を間違えていました。当てにすべきでないものを当てにしていました。それでもお育ての中でした。
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