往生の三カ条
一、落ちるのは私
二、助けたもうは弥陀如来
三、南無阿弥陀佛にて往生す
迷いを離れて生死の苦海を脱がれ、悟りを開いて宇宙の大真理と心性の大真理と佛の大真理を悟って、自分が佛になり、また一切衆生を佛にする身になるのが佛教の目的である。
自力で佛に成ろうと思えば、どの宗派でも必ず戒定慧の三学を修せねばならぬ。
戒とは一切の悪を作らず、一切の善根を修することをいう。
定とは坐禅をすることであり、一切の世間のことを捨てて静かに座って、心の波が完全に静まって無念無想になり、真の無我に成り切ることである。その時一切の煩悩は滅して佛に成るのである。
すなわち戒律を守り、禅定を修して、しかる後にあらわれる心性の光りを智慧という。
今日の凡夫としては、三学を完全に修する人は、一人もあるまい。三学が出来ず、その反対に罪ばかり造っておったら地獄に、否でも応でも落ちなければならぬ。それで私は「落ちるのは私」と申し上げるのである。
信心を得たら参れると聞いて、信心を得よう得ようにかかって、お寺参りしても「得よう」と思う心が邪魔をして、なかなか得られるものではない。お寺詣りは、信心を得ようと思って詣るよりも、
(1)地獄行きを知らしてもらうために詣るのである。
(2)本願力を聞くために詣るのである。
また、お寺詣りは、聞いて聞いて聞きだめするために詣るのでなく、聞きだめしてもあかんということを聞きに詣るのである。聞きだめしたのを一つずつ取ってもらうために詣るのである。
聞いたと思っても地獄行き、信じたと思っても地獄行き、
善いことをしても地獄行き、悪いことをしても地獄行き、
思うても地獄行き、思わずとも地獄行き、思いで参れるお浄土ではない。
本願力で参らせていただくのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)
2 件のコメント:
聞いたと思っても地獄行き、信じたと思っても地獄行き、
善いことをしても地獄行き、悪いことをしても地獄行き、
思うても地獄行き、思わずとも地獄行き、思いで参れるお浄土ではない。
とありますが、
往生の三カ条
一、落ちるのは私
こちらの善し悪しを徹底的に否定してくださいます。
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