2022年9月5日月曜日

往生三カ条(一)

   往生の三カ条
 一、落ちるのは私
 二、助けたもうは弥陀如来
 三、南無阿弥陀佛にて往生す

 迷いを離れて生死の苦海を脱がれ、悟りを開いて宇宙の大真理と心性の大真理と佛の大真理を悟って、自分が佛になり、また一切衆生を佛にする身になるのが佛教の目的である。

 自力で佛に成ろうと思えば、どの宗派でも必ず戒定慧の三学を修せねばならぬ。
 戒とは一切の悪を作らず、一切の善根を修することをいう。
 定とは坐禅をすることであり、一切の世間のことを捨てて静かに座って、心の波が完全に静まって無念無想になり、真の無我に成り切ることである。その時一切の煩悩は滅して佛に成るのである。
 すなわち戒律を守り、禅定を修して、しかる後にあらわれる心性の光りを智慧という。

 今日の凡夫としては、三学を完全に修する人は、一人もあるまい。三学が出来ず、その反対に罪ばかり造っておったら地獄に、否でも応でも落ちなければならぬ。それで私は「落ちるのは私」と申し上げるのである。


 信心を得たら参れると聞いて、信心を得よう得ようにかかって、お寺参りしても「得よう」と思う心が邪魔をして、なかなか得られるものではない。お寺詣りは、信心を得ようと思って詣るよりも、
 (1)地獄行きを知らしてもらうために詣るのである。
 (2)本願力を聞くために詣るのである。
 また、お寺詣りは、聞いて聞いて聞きだめするために詣るのでなく、聞きだめしてもあかんということを聞きに詣るのである。聞きだめしたのを一つずつ取ってもらうために詣るのである。
 聞いたと思っても地獄行き、信じたと思っても地獄行き、
 善いことをしても地獄行き、悪いことをしても地獄行き、
 思うても地獄行き、思わずとも地獄行き、思いで参れるお浄土ではない。
 本願力で参らせていただくのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

聞いたと思っても地獄行き、信じたと思っても地獄行き、
善いことをしても地獄行き、悪いことをしても地獄行き、
思うても地獄行き、思わずとも地獄行き、思いで参れるお浄土ではない。
とありますが、

往生の三カ条
一、落ちるのは私

光瑞寺 さんのコメント...

こちらの善し悪しを徹底的に否定してくださいます。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...