阿弥陀如来が「親様」である、ということが分からぬうちは、佛法はむつかしい、むつかしい。実に極難信である。
しかるに一たび「親様」が分かってみれば、心配することもなく、心配も安心も、どこへやら飛んでしまって、「佛法はこんな易いものであったのか」と、聞いたことも信じたことも、何もかも忘れて、「親様」が何となく、なつかしくなるものだ。
本願力も、南無阿弥陀佛も、およびごえも、信心も、皆「親様」という言葉のうちにこもっている。
佛法はただ 何となくたのもしく 本願力を仰ぐばかりぞ
聞いた おぼえた こころまで 弥陀に取られて丸裸 裸でいつも親の前
何十年の聴聞の 免状すてて幼稚園 これから先も幼稚園
臨終一念の夕べまで 聞かぬ昔の赤児にて 大般涅槃を超証す
願力不思議 不思議なり
稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)
2 件のコメント:
佛法はただ 何となくたのもしく 本願力を仰ぐばかりぞ
とありますが、
阿弥陀様がよんでくださるから まいらせていただけるばかり
であります。
そのあたりの、力みの抜けたお言葉が有り難い。
私の力みも払って下さるようで有り難い。
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