阿弥陀如来は「帰命尽十方無碍光如来」である。「南無不可思議光如来」である。また南無阿弥陀佛であらせられる。
無碍の光明を放って、私たちの無明煩悩の闇を晴らして下さる如来様である。
「信心を早ういただきたい」「どうしたら信心がいただけますか」などと思い悩む前に、自分の罪業の深重なることを考えて思い悩むがよい。その罪業の闇を晴らして下さる方が阿弥陀如来であり、その力が無碍の光明である。
無碍の光明で闇が晴らされたら、地獄へ落ちようと思っても落ちられぬでないか。正信偈に「不断煩悩得涅槃」とは、阿弥陀如来の無碍の光明があるからである。何と不思議なことでないか、有り難いことでないか。
阿弥陀如来は、光明無量の佛であり、寿命無量の佛である。参った衆生も光明無量、寿命無量の佛にしていただける。それゆえ阿弥陀と名づけ奉るのである。何もかも不思議である。不思議不思議で参らせていただくのである。
南無阿弥陀佛様がよびごえとなり、本願の白道となり、衆生の信心となって下さる。南無阿弥陀佛はありがたい。阿弥陀如来が南無阿弥陀佛となって、この世にお出まし下されたのである。南無阿弥陀佛は、生き如来様であり、また如来様の生の声である。
浄土真宗は、南無阿弥陀佛のいわれを聞き開いたのが正しい御安心である。そのことを御開山様は信巻にしかと申し遺されてある。
もし我等が、南無阿弥陀佛を聞くことが出来なかったら、我等はどうなるか。この尊い名号の声も言われも聞かずに死んでゆく者が多い末の世に、ようまあ「南無阿弥陀佛、落としはせぬぞ」とお聞かせ下されたことよ。
南無阿弥陀佛 一たびも 聞けば往生 南無阿弥陀佛
南無阿弥陀佛と、如来様の大慈悲心が胸に徹るなり、「ああ、ありがたや南無阿弥陀佛」と、また口にあらわれて、十方衆生を済度したもうのである。
南無阿弥陀佛が本願力、本願力が南無阿弥陀佛である。
南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛
稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)
2 件のコメント:
浄土真宗は、南無阿弥陀佛のいわれを聞き開いたのが正しい御安心である。そのこと御開山様は信巻にしかと申し遺されてある。
とありますが、
衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
(『教行信証』「信巻」)
とあります。
よびごえとなり、白道となり、信心とならねば、この者を救うことは出来ぬ、と思し召して下された。そのいわれ、そのお慈悲を南無阿弥陀佛と聞かせて下さいます。
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