2022年10月5日水曜日

はたらくままに

 「信心を得ると往生ができる」と聞くものだから、信心を得たいと思い、得ようにかかる。もうその時は、信心は何か物的存在となってしまっておる。一個の死骸同然になっておる。
 それを知らずに掴もうとし、把えようとし、獲得しようとかかる。それは影法師を踏もうとするようなもので、いつまで経っても把えられるものではない。

 信心は何も物柄ではない。ただ心のはたらきである。唯だ如来様の大慈悲の活動があるのみである。この活動が私の心を活動せしめて下さる。
 唯だ如来様の大慈大智の活動のみが私をお救い下さるのである。如来さまを「あて」にし、「力」にする心のはたらきとなって下さるのである。それを信心というのである。ゆえに信心とは、如来さまの悲智の活動であり、大悲の親の念力である。

稲垣瑞劔師「法雷」第64号(1982年4月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

唯だ如来様の大慈大智の活動のみが私をお救い下さるのである。
とありますが、

私たちは、どこどこまでも仏様がしてくださっている。
そのことを知らせてもらうだけで、
自分から、掴もうとし、把えようとし、獲得しようとしても
掴めない、把えない、獲得できない。

光瑞寺 さんのコメント...

気付いたらもう胸のうちですね。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...