「信心を得ると往生ができる」と聞くものだから、信心を得たいと思い、得ようにかかる。もうその時は、信心は何か物的存在となってしまっておる。一個の死骸同然になっておる。
それを知らずに掴もうとし、把えようとし、獲得しようとかかる。それは影法師を踏もうとするようなもので、いつまで経っても把えられるものではない。
信心は何も物柄ではない。ただ心のはたらきである。唯だ如来様の大慈悲の活動があるのみである。この活動が私の心を活動せしめて下さる。
唯だ如来様の大慈大智の活動のみが私をお救い下さるのである。如来さまを「あて」にし、「力」にする心のはたらきとなって下さるのである。それを信心というのである。ゆえに信心とは、如来さまの悲智の活動であり、大悲の親の念力である。
稲垣瑞劔師「法雷」第64号(1982年4月発行)
2 件のコメント:
唯だ如来様の大慈大智の活動のみが私をお救い下さるのである。
とありますが、
私たちは、どこどこまでも仏様がしてくださっている。
そのことを知らせてもらうだけで、
自分から、掴もうとし、把えようとし、獲得しようとしても
掴めない、把えない、獲得できない。
気付いたらもう胸のうちですね。
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