慚愧とは、はじ入ることじゃ。自分に恥じ、他人に羞じ、天に慚じ、地に愧じ、内に恥じ、外に羞じることである。
これがあるので人間らしい。これがあるので佛法に入る。慚愧があるので佛法の真味が分かり、解脱にも至りうるのである。慚愧よりよいものはない。慚愧が生死の海を渡らせる元手にもなる。
まあ世間では、善いことをして悪いことをするなと教える。通佛教でもこれを教える。まことにその通りで、その心がけがなくてはならぬ。
ところで、如来さまの眼から見て、ほんまに善いことだと見られるほどの善いことが何か一つでも出来るであろうか。人間はたまたま善いことをすれば、早やそれを鼻に掛ける。他の人に見てもらいたいと思う、褒めてもらいたいと思う。自慢をする、天狗になる。そうしないまでも、「自分は善いことをした」と内心ひそかに思うておる。「この報いはきっと来るであろう」などと思う。
人は浅ましいものである、というのはここのことだ。迷いの凡夫として、この浅ましさは取り切れないものじゃ。
他力の信を仰ぐ身になると、慚愧すらもできない我が身であると深くはじ入る。まあ、これが人間として為すことのできる最上の善であろう。
かかる人は、人目から見たら善人、我が身に顧みれば「今現に罪悪生死の凡夫、浅ましいもの」である。
稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)
2 件のコメント:
如来さまの眼から見て、ほんまに善いことだと見られるほどの善いことが何か一つでも出来るであろうか。
とありますが、
『歎異抄』の後序には、
「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。」
とあり、その現代語訳は、
「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。」
とあります。
なかなか「何が善で何が悪かを知らぬ」と言えるものではないのでしょうが、さらに「我が身はあさましい凡夫」とは、到底言えるものではありません。他力の信なればこそ。
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