信心とはどんなものか。問うことはいくら問うてもよい、と先ずしておくが、その答えを人に聞いて理解したり、合点したり、説明したり、自分の心の中に信心有りや無しやを詮索すると、信心は逃げて行ってしまう。
信心は、つかんでも悪い、放しても悪い。善いも悪いも、少しも気にかからぬような天地に信心が生きておる。「不可思議」のうちに宿っておる。
「不可思議」と言うが、何の不可思議か。自分のようなものが助かるのだから不思議である。不思議の本願力が「不思議!」と信ぜられたのだから不思議である。不思議のうちにのみ信心がある。
本願力の不思議があるから、自分の信心が有ろうが無かろうが、何も問題でない。「何も問題でない」と言うままが如来の本願力である。
稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)
2 件のコメント:
信心とはどんなものか。
と問いかけがありますが、
先徳の方からは、
「如来様の助けてくださるると云うことだけさえ聞こえれば、もうそれでよいのじゃあ。」
と答えていただいています。
先人のお言葉はまことに、力みのないたのもしさがありますね。
「善し悪しを 超えて大悲の 光りあり」(瑞劔師)
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