2022年12月15日木曜日

信心とはどんなものか

 信心とはどんなものか。問うことはいくら問うてもよい、と先ずしておくが、その答えを人に聞いて理解したり、合点したり、説明したり、自分の心の中に信心有りや無しやを詮索すると、信心は逃げて行ってしまう。
 信心は、つかんでも悪い、放しても悪い。善いも悪いも、少しも気にかからぬような天地に信心が生きておる。「不可思議」のうちに宿っておる。
 「不可思議」と言うが、何の不可思議か。自分のようなものが助かるのだから不思議である。不思議の本願力が「不思議!」と信ぜられたのだから不思議である。不思議のうちにのみ信心がある。
 本願力の不思議があるから、自分の信心が有ろうが無かろうが、何も問題でない。「何も問題でない」と言うままが如来の本願力である。

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

信心とはどんなものか。
と問いかけがありますが、

先徳の方からは、
「如来様の助けてくださるると云うことだけさえ聞こえれば、もうそれでよいのじゃあ。」
と答えていただいています。

光瑞寺 さんのコメント...

先人のお言葉はまことに、力みのないたのもしさがありますね。

「善し悪しを 超えて大悲の 光りあり」(瑞劔師)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...