2023年3月5日日曜日

生死の苦海ほとりなし

 世は無常火宅、人は罪悪深重のいたずらものである。
 そもそも人間の究極の理想は何か。理想がなければ人間は水上の浮き草でないか。大宇宙の中に蜉蝣のごとき命を以て、一時仮の姿を現しておるあわれな動物は汝でないか。法界の中のどの位置に汝は今居るのであるか。
 そんなことも考えたことがないから、常に不安と焦燥と恐怖に襲われているのである。常に刹那主義、享楽主義、我利我利主義で日を送っておるのが現代の世相である。
 とかく人生は苦しいものだ。苦しいときにはお念佛が出て下さる。これも御恩である。苦しいときには次の和讃を思い出すがよい。

 「如来の作願をたづぬれば
  苦悩の有情を捨てずして
  回向を首としたまひて
  大悲心をば成就せり」
  
  人間は生きようとしておる。生きよう生きようとしておるのは、ただ人間ばかりではない。草木も、禽獣も、天地間のものは皆、生きよう生きようと努めて、皆死んでゆくのである。また楽を求めて苦から苦に入るのが人間である。
 生きるとはどういうことか、この世に永く生命を保つことであるか、また五欲の奴隷となって幸福の影法師を追い求めて、齷齪することであるか。

 宗教とは何ぞ、現代人の多くは、宗教とは幸福に生きることが宗教である如く考えておる。そんなものは、ほんとうの宗教ではない。
 宗教とは「解脱」である。解脱の要諦は、唯だ「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」である。この一句は佛法の始めであり、また終わりである。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり
とありますが、

これは『歎異抄』第1章の冒頭にお書き下されたお言葉です。
つねに仏法の始まりであり、仏法の終わりである。ということは、
これ一つであるということです。

さらに、約めれば「弥陀の誓願」一つということになります。

光瑞寺 さんのコメント...

私たちの目線はすぐあちこちに散らばってしまいますが、要点を示していただくと、そこが着眼点になります。またそこから全体を見渡せるようになるのでしょう。ありがたいことです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...