世は無常火宅、人は罪悪深重のいたずらものである。
そもそも人間の究極の理想は何か。理想がなければ人間は水上の浮き草でないか。大宇宙の中に蜉蝣のごとき命を以て、一時仮の姿を現しておるあわれな動物は汝でないか。法界の中のどの位置に汝は今居るのであるか。
そんなことも考えたことがないから、常に不安と焦燥と恐怖に襲われているのである。常に刹那主義、享楽主義、我利我利主義で日を送っておるのが現代の世相である。
とかく人生は苦しいものだ。苦しいときにはお念佛が出て下さる。これも御恩である。苦しいときには次の和讃を思い出すがよい。
「如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり」
人間は生きようとしておる。生きよう生きようとしておるのは、ただ人間ばかりではない。草木も、禽獣も、天地間のものは皆、生きよう生きようと努めて、皆死んでゆくのである。また楽を求めて苦から苦に入るのが人間である。
生きるとはどういうことか、この世に永く生命を保つことであるか、また五欲の奴隷となって幸福の影法師を追い求めて、齷齪することであるか。
宗教とは何ぞ、現代人の多くは、宗教とは幸福に生きることが宗教である如く考えておる。そんなものは、ほんとうの宗教ではない。
宗教とは「解脱」である。解脱の要諦は、唯だ「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」である。この一句は佛法の始めであり、また終わりである。
稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)
2 件のコメント:
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり
とありますが、
これは『歎異抄』第1章の冒頭にお書き下されたお言葉です。
つねに仏法の始まりであり、仏法の終わりである。ということは、
これ一つであるということです。
さらに、約めれば「弥陀の誓願」一つということになります。
私たちの目線はすぐあちこちに散らばってしまいますが、要点を示していただくと、そこが着眼点になります。またそこから全体を見渡せるようになるのでしょう。ありがたいことです。
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