2023年3月20日月曜日

落ち着き場所

 佛法を聞いたものは、どこに落ち着くか。
 この娑婆も五十年乃至百年の宿屋住まい。お浄土へ参っても、直ぐに還相回向の如来の願力に乗じてまた穢国に還り来たり、衆生済度に忙しい。
 所詮、無常火宅のこの世も一場の夢。苦しい夢であれば、さのみ望みを掛けるところではない。往生するのは法性常楽の楽しみがあるが、生死海に浮きつ沈みつしておる衆生がある限り、自分独り楽しい生活をしておることができぬ。生死の海に飛び込んで、一切衆生と共に苦しみ、苦しみつつ衆生を佛道に入れなければ、大悲心が収まらぬ。
 如来は涅槃に住しておると同時に、生死の中ではたらくのが如来である。

 そういうことであるならば、佛法者は何時どこに落ち着く所とては無い。
 如来は、本願力と共に、落ち着き場所も定めず、久遠の昔から未来永劫の末かけて、法界を到る所、残る隈もなく駈けめぐっておられる。
 光明住まいの我等とても、如来の行きたもうところへ行き、如来のはたらきをはたらきとする身であれば、如来様が落ち着き場の無いのと同じく、我等もまた落ち着き場の無いものである。落ち着き場を持たぬ落ち着き方といえば、また格別の味がある。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

落ち着き場を持たぬ落ち着き方
とありますが、

「落ち着いた」というのが、安楽椅子です。くわばら、くわばら。
いつまでも「落ち着かない」のです。だから自由人なのです。
娑婆にどっぷり浸かり切ったままです。どうしようもないままです。
どこどこまでも有り難い事であります。

光瑞寺 さんのコメント...

「落ち着き場所なく落ち着いておる」とは面白いものです。論理ではなく味わいでありましょうが、味が出るまで踏みしめておられます。

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