いつの世にも、賢ぶる人が異安心を唱える。あれはわるいことである、にくらしいわざである。わが身はえらいもの、人はアカンものと思って高ぶる人、少しばかり学問して分かった顔をしておる人が異安心を唱える。そんな人はだいたい無学じゃ。ほんとうに立派な師匠に就いて、深くお聖教をいただけば、異安心にならぬものである。
『教行信証』と『和讃』とを、くれぐれも拝読させていただいて、
「心を弘誓の佛地に樹て、念を難思の法海に流す」
と仰せられた聖人をお慕い申し上げることは、何よりもありがたい、幸せのことである。
高慢同行がぐじゃぐじゃ言うてきても怒ってはならぬ、冷やかしてはならぬ。自分はただ佛語を信ずるばかりである、といって聖教の言葉を取り出して、お味わいを言って聞かせてやるがよい。そうすると、相手の人もいつしか恐れ入りましたとなって、頭を下げるものや。自分がお聖教の言葉の前に頭を下げてかからぬと、相手は頭を下げませんぞ。
稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)
2 件のコメント:
春風駘蕩のごとし
とありましたので、少し調べてみました。
「しゅんぷうたいとう」と読み、
春風がのどかに吹くさま。転じて、性格・態度がのんびりしているさま。
とありました。
詩人の謝朓が、
春物方駘蕩→春の景色は今まさにのどかである。
と読んだようです。
文字に則して文字を離れ、知解分別に止まらずしてお聖教のお育てをよろこばせていただくばかりです。
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