「はからい」がすっかり無くなるには、釈尊が佛陀であるという信仰が第一番に必要である。高僧方が釈迦如来をお敬いされているのは、今日の我々が釈尊を敬っているのと雲泥の差がある。子供の時からその点と、因果(業)の真理をしっかり植え付けておくことが大切である。これがおろそかになっておるものだから、いくら説教を聞かされても、はからいが捨たるどころか、ますますはからいを重ねるようにも思われる。
「はからいを捨てよ」というても、なかなか捨たるものではない。己れの愚かさが分からぬからである。己れが愚か者であることが分かるのは、釈迦如来の智慧と慈悲と、お説きあそばされた教えの真理が分かってくると、自然に自分の愚かさが分かってくる。そうなれば理屈を捨てて、ただただ佛語に信順するようになる。
佛語を信ずるより外に、往生極楽の道はない。はからいが捨たるのも、佛語を仰ぐこと以外にない。
和讃に曰く
無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり 罪障重しとなげかざれ
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず
と。何とありがたいお言葉でないか。この「おことば」はそのまま南無阿弥陀佛の「およびごえ」である。
このおことばをよくよくいただいて、死に直面しても少しも不安の無いようになるまで、しっかりと聞きもし、説きもし、味わって味わって、味わいつくして、如来様の限りなき智慧と慈悲のまことが身心に徹底することが大切である。このお言葉を、自分のいのち、生死を解脱する唯だ一つのお言葉であると深く信ぜられるまで味わわれないようなことでは駄目である。
このお言葉が、ほんとうに、ありがたく味わわれてみれば、はからいはひとりでに捨たる。信心決定の秘訣は、ただただ祖師聖人のお言葉をそのままいただくより外に道はない。
稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)