佛という御方はどういう御方か、佛智はどのくらい深いものか、不思議なものか、本願力はどのくらい力強いものかということが飲み込めると、それがそのまま信心であるが、これが何十年説教を聞いても、しかと合点がゆかぬものであるから、信心は難中の難となってくる。
三部経でも和讃でも、大蔵経の一冊でも、ほんとうに苦心してその意味を聞かせていただくと、とてもとても人間が考えていたようなものでない、ただただ佛智の深く広く不思議なことを知らされて、仰天するばかり、頭が下がるだけである。
自分でお経を味わうことができなければ、何百万、何千万人の中でただ一人か二人かといったほどの偉い高僧方が一生かかって味わってくだされたものを、そのままお伝えくださるお方に出逢うたならば、「はい」と素直にお受けしたらどうか。
自分でお経を味わうことができなければ、何百万、何千万人の中でただ一人か二人かといったほどの偉い高僧方が一生かかって味わってくだされたものを、そのままお伝えくださるお方に出逢うたならば、「はい」と素直にお受けしたらどうか。
稲垣瑞劔師「法雷」第74号(1983年2月発行)
2 件のコメント:
信心は難中の難
とありますが、
「難中之難無過此」と正信偈にあります。
信心といっても、自力の信心と他力の信心がありまして、
自力をもって信楽には絶対になれないということです。
自力は全く必要ないのが他力の信心です。
「他力の信」とは不思議なものです。涅槃経には「無根の信」ともあります。生ずべからずして生ずる不思議です。佛力難思なれば古今も未だあらず。
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