2023年9月5日火曜日

如来様にはからわれて

 佛教は佛陀の教説であり、生死出べき道であり、また佛陀の悟られた法界の大真理である。生死出べき道は、禅定と大信心あるのみである。
 禅とは息慮凝心して空無我を悟り、境地冥合の域に至るをいう。
 大信心とは、無碍の光耀が無明の闇を破するをいう。生死罪濁の凡愚は、阿弥陀如来の光明名号の外に生死出べき道はない。阿弥陀如来は大慈大悲の親様である。「和讃」に曰く、 

「五濁悪世のわれらこそ  金剛の信心ばかりにて
 ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」

と。これまた佛智大悲の御はからいである。これを「自然法爾」という。

 凡夫小智の「はからい」は、皆これ妄念の圏内である。法界はただ無碍光の照耀あるのみ。大信心は無碍光の流れに乗ずるのみである。
 自分が信心取った、いただいたと「自分」が出たら皆自力。「他力」とは、如来の本願力に流されて、親のふる里に帰るのを他力という。
 他力の中の自力、これを二十願といい、また十九願という。「何ぞして参ろう」「どうしたら参れるか」と、気を使う、早やこれ自力の泥田に落ち込んでいるのである。

 「そのまま来たれ」の勅命の外に、こちらが持ち出す信心はなし。如来様は「そのまま来たれ、お浄土で待っておるぞ」とのたもう。自力の角を振り立てておれば往生は難中の難、如来にまかせたてまつれば易中の易である。

 もう命はあと一分間、如来にまかせたてまつるより外に、往生極楽の道はない。極楽の道は一すじ南無阿弥陀、わき見をするな考えな。凡夫の思いは皆自力。思案工夫をしたとても、地獄の業の外はない。

 地獄行きを そのまま助くる 御本願
  心も言葉もたえはてて 不可思議尊を帰命する

 信心を 取ろう取ろうと 幾十年
  勢尽きて 汲み上げられし 蛙かな

 佛法はむつかしいぞといえば、後込みをする。易いといえば、如来様まで馬鹿にする。業報まかせとは言いながら、苦労せぬ人いただけぬ。

 信心は 苦労の枝の 先に咲く

 凡夫が佛に成るほどの大事業、なめておったら皆落ちる。本願力が大きいで、落ちる衆生を そのままで、佛智の不思議は不思議なり。大悲の不思議は不思議なり。

稲垣瑞劔師「法雷」第77号(1983年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「そのまま来たれ」の勅命の外に、こちらが持ち出す信心はなし。
とあります。

「そのまま来たれ」は、弥陀の本願招喚の勅命なりであり、
それを私が持ちかえる必要はなく、ただ仰ぐばかりであると、
教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

「そのまま来たれ」は、いつも「そのまま来たれ」。
こちらの理解や評価を差し挟まずとも「そのまま来たれ」であります。
しかも固定的でなく、展転迷倒している私に添うて「そのまま来たれ」とご一緒くださる。
何とも頼もしいことです。勿体ないことです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...