2023年12月20日水曜日

一句にあり

 親鸞聖人『浄土文類聚鈔』に曰く

 「夫れ無碍難思の光耀は苦を滅し楽を証す」

と。この一句は真宗の全野を掩(おお)うところのものである。八万の法蔵の眼睛であり、初転華厳より終わり涅槃に到るまで「菩提の因無量なりと雖も信心を説けばこの中に摂尽する」とは、正にこの一句の真精神をあらわしたものである。この一句を容易に看過することなかれ。

一、絶対の勅命である。その中にすべてのはからいは消滅する。久遠劫来の自力の機執はここに根本より一掃せられる。

二、安心の要諦この中にあり。機受ことごとく法体にかえして法体円成の姿はこの一句である。法体円成を全顕して機受趣入を語るは真宗の生命である。

三、この一句は法体の独立をあらわす。  法然上人曰く、

 聞きえては 野中に立てる 竿なれや かげさわらぬを 他力とぞいふ

 南無阿弥陀佛の独立は「白木の念佛」である。助をささぬのである。これを真実信心とする。

四、この一句によりて禅の眼目たる「無心」を味わうことができる。
是れを千読万読して、久しく誦し来たり誦し去るとき、「至心信楽己れを忘れて無行不成の願海に帰す」る真意を味わうことができる。そのとき凡夫の自力心は毫末もその痕跡をとどめないのである。和讃に曰く、

 「大願海のうちには   煩悩の波こそなかりけり
  弘誓の船にのりぬれば 大悲の風にまかせたり」

 「名号不思議の海水は  逆謗の屍骸もとどまらず
  衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」

と。滾々として尽きざる深旨はこの一句にあり。「若不生者 不取正覚」と誦し去り誦し来たりて、無限無尽の味を味わうのと同一味である。

五、この一句の精神は、凡夫有漏の行業をぬぐい去って、大慈悲・大智慧の円満なる相を全顕する。是れ即ち他力真宗の玄規である。

六、極楽を善導大師釈して曰く、「極楽無為涅槃界」と。『論註』に真実の証をあらわして「真実智慧 無為法身」と。
「無為の妙果」を得んとするならば、須く「無為の信心」によるべし。和讃に曰く、

 「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば
  大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり」

と。

七、現代、法を説く者の中に、機受安心を正確ならしめんがために、ややもすれば煩瑣なる論議をなして一念覚知を固執し、益々はからいを募らしむるものあり。この一句を味わわずして何ぞ機の詮索に日時を費やし、言論を徒費するや。

八、『教行信証』の美玉六篇、鍾(あつま)まってこの一句にあり、凝ってこの一句にあり。無限の味わい、無限の法門この中より流れ生ずる。是れ即ち光寿二無量の覚体、六字尊号の生命、無量光明土の人格的躍動である。

九、この一句を趙洲の「無字の公案」(佛法の極意)と見て、二十年一日のごとく旦晨に是れを味わい、寤寐に感じて忘るることなくんば、廓然として大悟する処あろう。

十、この一句を開けば龍・天の根本精神、真実の面影の彷彿として眼前に浮かび来たる。
「無碍」とは帰命尽十方無碍光如来の光明にあり、「難思」とは難度海を度する大船、難思の弘誓をあらわす。この一句は龍天二祖を高祖親鸞聖人の体現したまえる古今無比の絶妙至極の金文字であり、究竟一乗海をあらわしたものである。

 稲垣瑞劔はこの一句を頂戴し、感佩し、銘記して一生用いて足りて、毫も不足あることなし。

 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

稲垣瑞劔師「法雷」第80号(1983年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

南無阿弥陀佛の独立は「白木の念佛」である。助をささぬのである。
とあります。

法然聖人は、「本願の念仏には、一人立ちをせさせて、助をささぬなり」
と仰られています。
「ただ生まれつきてのままにて念仏する人を、念仏に助ささぬとは申すなり。」
と何の助もいらないのであります。

光瑞寺 さんのコメント...

「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀佛と申して、疑いなく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。…たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念佛すべし。」(一枚起請文)

これほど簡潔なみ教えを受け取れぬというのは、それがはからいなのでしょうね。

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