2023年12月15日金曜日

功徳莫大なるゆえに

 念佛を称えねばならぬとか、称えなくても信心さえあればそれでよいとか、何とか彼とか言うのは、まだほんとうに如来の本願力がわかってない。
 「ああ、忝い」と、本願のみこころ、親の大悲、佛智不思議を仰いで、頭が下がったのであれば、頭が下がると同時に念佛はひとりでに口に浮かんでくださる。その念佛が本願力そのものである。それが御恩報謝になると仰せられるから、勿体ないことである。

 佛法は頭で考えて合点すればそれでよいというものではない。心に如来の大悲心が感得されなければ何にもならぬ。
 とは言うものの、佛法を聞いてみようかと思う一念でも、その功徳は莫大である。計り知ることが出来ない。まして一語でも半句でも聞いて信を起こすならば、諸天善神もよろこびまもりたもうのである。佛法は功徳の泉である。

稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「諸天善神もよろこびまもりたもうのである」
とあります。

『浄土和讃』に、
南無阿弥陀仏をとなふれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまへにて
まもらんとこそちかひしか

天神・地祇はことごとく
善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに
念仏のひとをまもるなり

と、お示しくださっています。

光瑞寺 さんのコメント...

「功徳莫大なるゆゑに 本願にあふことをよろこぶべし」(横川法語)

よろこぶべきは功徳の大小ではなく、「まかせよ」のご本願にお遇いしたことである、とのお示しがありがたい。

空手にて いたゞく寳 無尽蔵

 今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。 役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。 「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。 念佛者は、信心歓喜の生活である。 稲垣瑞劔師「法雷」第91号(198...