2023年12月10日日曜日

智慧のうしほに一味なり

 善人も悪人も同様に助けようと思し召す如様様は、どんなお方であろうか。このところに深く心を止めて、よくよく思案あるべきである。
 善を欲し悪を憎むのは人間の本性でないか。道徳の法則でないか。自力修行の根本でないか。それにもかかわらず弥陀如来は、善人も悪人も同様に可愛く思し召され、一様に助けんと仰せられる。

 よくよく思案したとき、ただちに思い浮かぶのは如来の大慈悲心である。大悲心の深さ、大きさ、とてもとても我等罪悪生死の凡夫の、心も、思いも及ぶところではない。
 また如来の智慧の深さ、ひろさ、不思議さは、これまた凡夫の思議を絶しておる。その不思議さが本願力の不思議である。それゆえ我等は、

 「願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
   佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず」

の和讃がかぎりなくありがたい。また聖人は仰せられた。

 「大願海のうちには   煩悩の波こそなかりけり
   弘誓の船に乗りぬれば 大悲の風にまかせたり」

とある。また和讃に曰わく、

 「尽十方無碍光の    大悲大願の海水に
   煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり」

 佛法の味わいはここにある。凡夫往生もここにある。
 信心の味は、いつ思い出しても忝い。ありがたい。つねに思い出してはよろこぶ。これを念佛と言い、憶念という。そして念佛も憶念も、称名も何もかも、そのまま本願力であり、南無阿弥陀佛である。まことに不思議なありがたいことである。

稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

智慧のうしほに一味なり

あらためて、「うしほ」を古語辞典で調べてみました。
【潮】海水の干満によって生ずる海水の流れ。
とあり、単に海水ではなく、常にはたらいていることを
示していただいています。

光瑞寺 さんのコメント...

「風」が動きと切り離せないように、「海潮」も動態を表しているのですね。念佛も信心も皆うごいています、私を往生せしめる力です。

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