善人も悪人も同様に助けようと思し召す如様様は、どんなお方であろうか。このところに深く心を止めて、よくよく思案あるべきである。
善を欲し悪を憎むのは人間の本性でないか。道徳の法則でないか。自力修行の根本でないか。それにもかかわらず弥陀如来は、善人も悪人も同様に可愛く思し召され、一様に助けんと仰せられる。
よくよく思案したとき、ただちに思い浮かぶのは如来の大慈悲心である。大悲心の深さ、大きさ、とてもとても我等罪悪生死の凡夫の、心も、思いも及ぶところではない。
また如来の智慧の深さ、ひろさ、不思議さは、これまた凡夫の思議を絶しておる。その不思議さが本願力の不思議である。それゆえ我等は、
「願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず」
の和讃がかぎりなくありがたい。また聖人は仰せられた。
「大願海のうちには 煩悩の波こそなかりけり
弘誓の船に乗りぬれば 大悲の風にまかせたり」
とある。また和讃に曰わく、
「尽十方無碍光の 大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり」
佛法の味わいはここにある。凡夫往生もここにある。
信心の味は、いつ思い出しても忝い。ありがたい。つねに思い出してはよろこぶ。これを念佛と言い、憶念という。そして念佛も憶念も、称名も何もかも、そのまま本願力であり、南無阿弥陀佛である。まことに不思議なありがたいことである。
稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)
2 件のコメント:
智慧のうしほに一味なり
あらためて、「うしほ」を古語辞典で調べてみました。
【潮】海水の干満によって生ずる海水の流れ。
とあり、単に海水ではなく、常にはたらいていることを
示していただいています。
「風」が動きと切り離せないように、「海潮」も動態を表しているのですね。念佛も信心も皆うごいています、私を往生せしめる力です。
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